相続・手続き 2026-09-09
相続分の譲渡と「事実上の放棄」 ― 家庭裁判所の相続放棄と何が違うのか
「遺産はいらない」の伝え方は三つあります。家庭裁判所で相続放棄する、遺産分割で何も取らない(事実上の放棄)、自分の相続分を他の相続人に譲る(相続分の譲渡)。借金を免れるか、協議に参加し続けるか、税金はどうなるか。三つの違いと、協議から抜けたい相続人に実務で勧めている方法を整理します。
この記事の位置: 亡くなる前にできること → 亡くなってすぐ(3か月まで) → 相続人と財産を確定する → [分け方を決める] → 名義を変える・税金(10か月〜3年) → 相続した財産をどうするか → 状況別(当てはまる方だけ)
北海道に住む弟から、電話で「相続は放棄したい」と言われた、という相談でした。相談に来たのは姉のほう。父が亡くなって八か月。実家の土地と預貯金を姉が引き継ぐことで弟は納得していて、「放棄の書類を送ってくれれば署名する」と言っているそうです。私が聞いたのは「その放棄は、どの放棄ですか」でした。姉は「放棄に種類があるんですか」と聞き返しました。あります。三つ。そして弟が言っている「放棄」は、たぶんそのどれでもありませんでした。
遺産分割の相談で「私は何もいらないので、手続きから外してほしい」と言う相続人は珍しくありません。遠方に住んでいる、家族と疎遠、面倒に関わりたくない。その気持ちを形にする方法は三つあり、それぞれ効果が違います。違いを知らずに選ぶと、「いらない」と言ったのに借金が来た、「外れた」と思ったのに署名を求められ続けた、ということが起きます。
一つ目は、家庭裁判所での相続放棄です。相続放棄の記事で書いたとおり、亡くなったことを知ってから3か月以内に家庭裁判所に申述し、受理されると最初から相続人でなかったことになります。財産も借金も引き継ぎません。遺産分割協議の当事者からも外れ、以後の署名も要りません。「借金があるかもしれない」「完全に関わりたくない」なら、これ一択です。
二つ目は、遺産分割協議で何も取得しない、いわゆる「事実上の放棄」です。協議書に「〇〇は財産を取得しない」と書いて署名・実印を押す。手続きとしては簡単ですが、法律上は相続人のままなので、借金は法定相続分に応じて負担します(債権者は協議の内容に縛られません)。また、協議には最後まで参加し、署名と印鑑証明書を出す必要があります。「財産はいらないが借金はない家」で、協議に協力する意思があるなら、これで足ります。
三つ目が、相続分の譲渡です。自分の相続分(遺産に対する持分)を、他の相続人または第三者に譲ります。無償でも有償でも構いません。譲渡した人は、その相続分について遺産分割の当事者ではなくなり、以後の協議に参加しなくてよくなります。譲渡証明書(譲渡人の署名・実印、印鑑証明書)を残し、登記や協議書にはその証明書を添えます。遠方の相続人が「兄に全部任せる」形で協議から抜ける手段として、実務でよく使います。
| 家庭裁判所の相続放棄 | 事実上の放棄(協議で取得しない) | 相続分の譲渡 | |
|---|---|---|---|
| 手続き | 3か月以内に家庭裁判所へ申述 | 遺産分割協議書に記載 | 譲渡証明書(署名・実印・印鑑証明) |
| 相続人の地位 | 最初からなかったことに | 残る | 残る(協議の当事者からは外れる) |
| 借金 | 引き継がない | 法定相続分で負担 | 法定相続分で負担 |
| 協議への参加 | 不要 | 最後まで必要 | 譲渡後は不要 |
| 次順位への影響 | 相続権が次順位へ移る | なし | なし |
| 税金 | ― | 取得しないので相続税なし | 無償なら譲受人に相続税(第三者は贈与税) |
ただし相続分の譲渡にも、放棄と違う点があります。相続人であること自体は変わらないので、債務については法定相続分の負担が残ります(債権者との関係では譲渡は効きません)。第三者に譲渡した場合、他の相続人は一か月以内に、その第三者から相続分を買い戻す権利(取戻権)を持ちます。そして税金です。無償で相続人に譲渡した場合は、譲り受けた人がその分を相続で取得したものとして相続税の対象になり、第三者への無償譲渡は贈与税の対象になります。有償なら譲渡人に所得税がかかる場合があります。
実務で勧めている使い分けはこうです。借金があるか分からない、あるいは家族と完全に縁を切りたいなら、3か月以内に家庭裁判所で放棄。借金がなく、協議に協力する意思があるなら、協議書で取得しない旨を書く。借金がなく、協議から抜けて他の相続人に任せたいなら、相続分の譲渡。三つ目は、譲渡先を決めるときに、法定相続分どおりの結果になるかどうかを税理士と確認してから使います。
現場の整理です。弟が言う「放棄」を、三つに当てはめてみます。一つ目、家庭裁判所の相続放棄。父が亡くなったことを弟が知ったのは八か月前で、3か月の熟慮期間はとっくに過ぎています。借金の存在を後から知った、といった特別な事情がなければ、もう申述はできません。二つ目、協議書に「取得しない」と書く事実上の放棄。これなら期限はありませんが、弟は協議書に署名し、印鑑証明書を出し、今後も相続に関する書類が来るたびに応じることになります。弟の希望は「もう関わりたくない」でしたから、少し合いません。三つ目、相続分の譲渡。弟の相続分を姉に無償で譲る。譲渡証明書に署名して印鑑証明書を添えれば、弟はそれ以後、協議の当事者ではなくなります。相続人は姉と弟の二人なので、弟の相続分を譲り受けた姉は、遺産分割協議書を作らなくても、譲渡証明書を添えて相続登記を一人で申請できます。弟の希望に一番近いのは、これでした。
書類はこうしました。相続分譲渡証明書を私が作り、北海道の弟に郵送。弟が署名し、実印を押し、印鑑証明書を添えて返送。姉はそれを添付して、法務局に相続登記を申請しました。登記は通り、姉の単独名義になりました。税金は、相続人への無償の譲渡なので、姉が弟の分も相続で取得したものとして相続税の計算に入ります。この家は基礎控除の範囲内だったので、申告は不要でした。ここまでは順調でした。
問題は半年後に来ました。父が生前、知人の借入れの連帯保証人になっていたことが分かり、債権者から姉と弟の両方に請求書が届いたのです。弟は「放棄したのに」と言いました。ここが、相続分の譲渡と家庭裁判所の放棄の一番の違いです。譲渡は相続人同士の間で持分を動かす手続きで、債権者には効きません。弟は法律上まだ相続人で、父の債務を法定相続分(2分の1)の割合で負います。家庭裁判所の放棄なら、最初から相続人でなかったことになるので、この請求は来ませんでした。八か月前に、父が保証人になっていたことを誰も知らなかった。知らなかったことを理由に、期限が過ぎてからの相続放棄を家庭裁判所に申述し、結果として受理されましたが、それは「知らなかった事情」が認められたからで、いつも通る道ではありません。しかも、先に相続分を譲渡していたことが財産の処分にあたるとして、受理された放棄の効力を債権者から争われる余地も残ります。
一つ注意を書いておきます。「放棄する」という言葉は、家族の会話では三つのどれを指しているか曖昧です。相続人の一人が「放棄した」と言っても、家庭裁判所の手続きをしていなければ法律上は相続人のままで、協議書への署名が要ります。相続登記の義務や、遺産分割協議の有効性に直結するので、「放棄」と聞いたら、家庭裁判所の受理通知書があるかを必ず確認してください。
弟が最初に電話で言った「放棄したい」は、「財産はいらない、手続きにも関わりたくない」という気持ちの言葉でした。法律上の三つのどれにも、ぴったりは当てはまりません。気持ちの言葉を、どの手続きに翻訳するか。そこで借金の有無を先に確かめていれば、答えは最初から家庭裁判所の放棄で、期限内に間に合いました。「放棄」と聞いたら、家庭裁判所の受理通知書があるかを確かめる。この記事の最後の一文は、そのためにあります。
執筆:長澤 湊(宅地建物取引士・行政書士・測量士補) 内容確認日:2026-10-02
この記事は制度と手続きの一般的な説明で、個別の事案についての法律・税務の相談や判断ではありません。制度や数字は内容確認日の時点のものです。ご自身の事案は、弁護士・司法書士・税理士・行政書士など、該当する専門家に確かめてください。