相続・手続き 2026-09-09
遺言執行者 ― 遺言に「執行者」を書く意味と、いないと何が止まるか
遺言は、書いただけでは動きません。遺言の内容どおりに登記や解約を実行する人が「遺言執行者」です。指定がないと相続人全員の協力が要り、内容に不満のある相続人が一人いれば止まります。執行者の権限(2019年改正で明確化)、誰がなれるか、就任後にすること、報酬、指定の書き方を整理します。
この記事の位置: [亡くなる前にできること] → 亡くなってすぐ(3か月まで) → 相続人と財産を確定する → 分け方を決める → 名義を変える・税金(10か月〜3年) → 相続した財産をどうするか → 状況別(当てはまる方だけ)
遺言書には「自宅と預金のすべてを長女に」と書いてありました。公正証書で、形式は完璧です。ただ、遺言執行者の指定がない。相続人は長女と長男。長男は遺言の内容に納得しておらず、「協力しない」と言った。長女は公正証書を持って銀行に行き、銀行は「相続人全員の署名が要ります」と答えました。完璧な遺言が、一枚の署名で止まった。この記事は、その遺言が動き出すまでの四か月の話です。
遺言を書いた人が亡くなったあと、その内容を実現する手続きが要ります。不動産の名義を変える、預貯金を解約して指定した人に渡す、株式を移す。この実行を担う人が遺言執行者です。遺言で指定しておくこともできますし、指定がなければ相続人などの申立てで家庭裁判所が選ぶこともできます。そして、指定がないまま誰も選ばれなければ、相続人全員で手続きをすることになります。
執行者がいないと何が起きるか。遺言で「長男に自宅を」とあっても、登記の申請には遺言を実行する側の協力が要り、遺贈の場合は相続人全員が登記義務者になります。預貯金の解約でも、金融機関が相続人全員の署名を求めることがあります。遺言の内容に不満のある相続人が一人でも協力しなければ、手続きは止まります。遺言は「争いを防ぐ」ためのものですが、執行者がいないと、争いのある家ほど動かなくなる、という逆説が起きます。
2019年7月の民法改正で、執行者の権限がはっきりしました。執行者は、遺言の内容を実現するために必要な一切の行為をする権限を持ち、相続人は執行者の妨げになる行為(遺言で長男に渡すはずの土地を勝手に売る、など)ができません。特定の財産を特定の相続人に渡す遺言(特定財産承継遺言)では、執行者が単独で相続登記を申請でき、預貯金の解約・払戻しも執行者が単独でできます。相続人全員の署名を集めて回る必要がなくなった、という点で、改正後の執行者は格段に強くなりました。
| 手続き | 執行者がいる | 執行者がいない |
|---|---|---|
| 特定の相続人への不動産の名義変更 | 執行者が単独で申請 | 取得する相続人が申請(他の相続人の協力が要る場面あり) |
| 第三者への遺贈の登記 | 執行者が登記義務者として申請 | 相続人全員が登記義務者 |
| 預貯金の解約・払戻し | 執行者が単独で可 | 金融機関により相続人全員の署名 |
| 遺言の内容に反する相続人の処分 | 無効(執行者の妨害禁止) | 止める手段が限られる |
| 認知・推定相続人の廃除 | 執行者が行う | 執行者の選任が必須 |
執行者になれるのは、未成年者と破産者以外の誰でもです。相続人の一人(たとえば財産を多く受け取る長男)を執行者にすることもできますし、行政書士・司法書士・弁護士などの専門職や、信託銀行を指定することもできます。相続人同士の関係が良好なら相続人の一人で足りますが、遺言の内容が相続人の一部に不利で、反発が予想されるなら、中立な第三者を指定したほうが実行が滞りません。
就任した執行者がすることは、順に、相続人全員への就任の通知、財産目録の作成と相続人への交付、そして遺言の内容の実行(登記、解約、引き渡し)です。遺言に書かれた認知(婚外子を自分の子と認める)や推定相続人の廃除は、執行者でなければできない行為で、これらが遺言にある場合は執行者が必須になります。実行が終わったら相続人に報告します。
報酬は、遺言で定めておくか、定めがなければ家庭裁判所に決めてもらいます。専門職に頼む場合の相場は財産額に応じて決まることが多く、相続人の一人が務める場合は無報酬にすることもできます。執行にかかる費用(登記の登録免許税、戸籍の取得費など)は相続財産から支出します。
指定の書き方は難しくありません。遺言書に「遺言執行者として、〇〇(氏名・生年月日・住所)を指定する」と書き、必要なら「〇〇が就任できないときは△△を指定する」と予備の人も書いておきます。複数人を指定することもできます。指定された人は、就任を承諾するかどうかを選べるので、専門職に頼むなら事前に了解を取っておくのが実務です。
順に書きます。まず、長女は家庭裁判所に遺言執行者の選任を申し立てました。遺言に指定がなくても、利害関係人の申立てで裁判所が選任できる。候補者として、私を挙げてもらいました。申立書、遺言書の写し、戸籍、候補者の住民票と承諾書。費用は収入印紙800円と切手。申立てから選任まで六週間。選任の審判が出て、私が執行者に就任。就任の通知を長男と長女に送り、財産目録を作って交付しました。
執行者がいれば、何が変わるか。特定財産承継遺言(自宅と預金を長女に)なので、2019年改正後は、執行者が単独で相続登記を申請でき、預金の解約も単独でできる。長男の署名は要りません。銀行には、遺言書、選任の審判書、私の本人確認書類で解約を申請し、二週間で長女の口座へ。自宅の相続登記は、執行者名義で申請し、十日で完了。長男には、執行の内容を報告書で送りました。長男は、その後、遺留分侵害額請求をし、長女は遺留分相当の金銭(財産4,600万円の4分の1で1,150万円)を払いました。遺言の実行と、遺留分の請求は、別の手続きとして、それぞれ進みました。
費用も書きます。執行者の報酬は、遺言に定めがないので家庭裁判所が決め、財産額4,600万円で約40万円。遺言者が遺言で私を執行者に指定していれば、申立ての六週間はなく、報酬は遺言の中で決められていた。四か月のうち、六週間と、長女が銀行で止まった一か月が、指定の一行がなかった分の時間です。
自筆証書遺言の保管制度の記事で「遺言の内容は誰かに読んでもらってください」と書きましたが、そのとき一緒に確認してほしいのが、この執行者の指定です。誰が実行するのかが書かれていない遺言は、書いた人の意思が半分しか届きません。
完璧な遺言は、執行者の一行がなかったために、銀行の窓口で止まりました。動かしたのは、家庭裁判所の選任と、2019年改正で強くなった執行者の権限です。「誰が実行するのかが書かれていない遺言は、書いた人の意思が半分しか届きません」と本文の最後に書きました。この遺言は、六週間かけて、残りの半分を届けました。
執筆:長澤 湊(宅地建物取引士・行政書士・測量士補) 内容確認日:2026-09-16
この記事は制度と手続きの一般的な説明で、個別の事案についての法律・税務の相談や判断ではありません。制度や数字は内容確認日の時点のものです。ご自身の事案は、弁護士・司法書士・税理士・行政書士など、該当する専門家に確かめてください。