相続・手続き 2026-10-12
親が元気なうちの「遺産はいらない」は効くか ― 生前の相続放棄はできない、遺留分の放棄は家庭裁判所の許可で
兄弟の一人が「遺産はいらない」と言って念書に署名しても、親が生きているうちの相続放棄は法律上できません。相続放棄は、亡くなったあとに家庭裁判所でする手続きです。生前にできるのは、親が遺言を書くことと、本人が家庭裁判所の許可を受けて「遺留分」を放棄することの二つで、この二つはセットで使います。遺産4,200万円・三兄弟の架空の例で、遺言だけのとき、両方そろえたときの金額を比べ、申立ての費用と書類を整理します。
この記事の位置: [亡くなる前にできること] → 亡くなってすぐ(3か月まで) → 相続人と財産を確定する → 分け方を決める → 名義を変える・税金(10か月〜3年) → 相続した財産をどうするか → 状況別(当てはまる方だけ)
「10年前、家族で集まったときに、三男が『遺産はいらない。兄貴たちで分けて』と言いました。私がその場でメモに書いて、三男に署名してもらっています。父が入院したので確認したいんですが、このメモで大丈夫ですよね」。80代の父親を持つ、三兄弟の長男からの相談でした。母親はすでに亡くなっています。最近も、生前に「遺産はいらない」と言っていた兄弟が、親が亡くなったあとで考えを変えた、という記事が出ていました。私の答えは、「そのメモで、三男さんの相続を止めることはできません」でした。
理由は、相続放棄が、亡くなったあとにしかできない手続きだからです。民法では、相続人は、相続が始まったこと(亡くなったこと)を知った時から3か月以内に、家庭裁判所に申し出て放棄します(915条・938条)。親が生きているうちに「放棄します」と書いても、法律上の相続放棄にはなりません。念書でも、公正証書にしても同じです。父親が遺言を残さずに亡くなり、三男が「やっぱり法定相続分がほしい」と言えば、三人で3分の1ずつになります。相続放棄そのものの手続きは、相続放棄の記事に書きました。
では、生きているうちに何ができるのか。手当ては二つです。一つは、父親が遺言を書くこと。もう一つは、三男が家庭裁判所の許可を受けて「遺留分」を放棄することです。遺留分とは、遺言があっても、子などに残る最低限の取り分です。子だけが相続人のときは、遺産全体の2分の1を、子の人数で分けます(1042条)。三兄弟なら、一人あたり6分の1です(なお、亡くなった人の兄弟姉妹が相続人になるときは、その兄弟姉妹には遺留分がありません)。遺言で「三男には何も渡さない」と書いても、三男はこの6分の1をお金で請求できます。くわしくは遺留分の記事に書きました。
横に時間の線があり、真ん中が親の死亡。亡くなる前にできるのは、親が遺言を書くこと、子が家庭裁判所の許可を受けて遺留分を放棄すること(民法1049条)。亡くなる前の相続放棄や「遺産はいらない」という念書は効力がない。亡くなったあとは、相続を知ってから3か月以内に家庭裁判所で相続放棄ができ(915条・938条)、遺産分割の話し合いで何も受け取らないこともできる。
遺留分の放棄は、親が生きているうちでも、家庭裁判所の許可を受けたときに限って効力があります(1049条1項)。申し立てるのは、放棄する本人(この家では三男)です。申し立てる先は、親(この家では父親)の住所地の家庭裁判所。費用は、収入印紙800円分と、連絡用の郵便切手(額は裁判所ごとに違います)。書類は、申立書と、父親と三男の戸籍謄本です(2026年10月時点の裁判所の案内)。審理では、本人の本心か(兄に言わされていないか)、放棄する理由に納得できるか、代わりに受け取ったものがあるか、といった事情を聞かれることが多くあります。
気をつけることが三つあります。一つ目、遺留分を放棄しても、相続人であることは変わりません。相続放棄とは別のものです。遺言がなければ、三男は法定相続分を受け取れます。だから、遺留分の放棄は、遺言とセットで初めて意味を持ちます。二つ目、三男が放棄しても、長男や次男の遺留分は増えません(1049条2項)。三つ目、遺留分を放棄しても、父親に借金があれば、それは相続します。借金を引き継ぎたくなければ、亡くなったあとに改めて相続放棄をする必要があります。
では、長男が持っている10年前のメモは、まったく意味がないのでしょうか。法律の上で三男を縛る力はありません。親が生きているうちに兄弟だけで遺産の分け方を決めておく「生前の遺産分割協議」も、同じく効力がありません。ただ、三男が当時どう考えていたかを示す記録にはなります。亡くなったあとの話し合いで、「あのときはこう言っていた」と確かめる材料にはなりますが、それで三男の取り分が減るわけではありません。
ほかの方法とも比べておきます。三男が、亡くなったあとに家庭裁判所で相続放棄をすると、三男は初めから相続人でなかったことになり、長男と次男の二人で2分の1ずつ分けることになります。三男が相続放棄をせず、遺産分割の話し合いで「何も受け取らない」と合意する方法もあります。どちらも、そのときの三男の気持ちしだいです。生前に形を決めておけるのは、遺言と遺留分の放棄の組み合わせだけです。
父親の側は、遺言を書きます。形が整っていて、なくしたり書き換えられたりする心配が少ないのは、公証役場で作る公正証書遺言です。遺言の中身は、遺留分の放棄の許可が出たあとで書いても、先に書いても構いませんが、両方がそろうまでは片方だけでは足りない、と覚えておいてください。遺言の最後には「付言」として、なぜこう分けるのか、三男への気持ちを書いておくと、亡くなったあとの話し合いがやわらかくなります。作り方は、公正証書遺言の記事と、付言の記事に書きました。
金額で比べます。父親の財産は、自宅3,000万円と預金1,200万円で、合計4,200万円とします(架空の例)。遺言がなければ、三人で1,400万円ずつです。「自宅は長男、預金は次男」という遺言だけを書いた場合、三男は遺留分として、4,200万円×2分の1×3分の1=700万円を、長男と次男に請求できます(誰にいくら請求できるかは、もらった額などで決まります)。遺言に加えて三男が遺留分を放棄していれば、この請求はできず、遺言どおりに分かれます。
| 遺言なし | 遺言だけ(自宅→長男、預金→次男) | 遺言+三男の遺留分放棄 | |
|---|---|---|---|
| 長男 | 1,400万円 | 3,000万円(三男から請求を受けうる) | 3,000万円 |
| 次男 | 1,400万円 | 1,200万円(三男から請求を受けうる) | 1,200万円 |
| 三男 | 1,400万円 | 0円+遺留分700万円を請求できる | 0円(請求できない) |
| 合計 | 4,200万円 | 4,200万円 | 4,200万円 |
この家の場合です。長男のメモが法律上は役に立たないことを伝えたうえで、三男と話す場を作ってもらいました。三男の気持ちは、10年前と変わっていませんでした。「言った以上は、きちんと形にしたい」と三男のほうから言いました。長男は、三男が父親の通院の付き添いを続けてきたことへの礼として、500万円を渡すことにしました。三男は、父親の住所地の家庭裁判所に、遺留分放棄の許可を申し立てました。申立書は三男が自分で書きました(裁判所に出す書類を作るのは、行政書士の仕事ではありません。頼むなら弁護士か司法書士です)。この家では、申立てのあと家庭裁判所から事情を尋ねる書面が届き、三男が理由と、長男から受け取る500万円のことを書いて返しました。申立てからおよそ1か月半で許可が出ました。父親は公正証書遺言を作り、自宅を長男に、預金を次男にと書いて、付言に三男への感謝を書きました。
「遺産はいらない」という言葉は、家族の中では大事な約束です。ただ、法律の上では、言葉だけでは形になりません。言った人の気持ちを守るためにも、親が元気なうちに、遺言と遺留分の放棄の二つをそろえておく。この記事の図は、亡くなる前と後で、できることが入れ替わる様子を一枚にしたものです。
執筆:長澤 湊(宅地建物取引士・行政書士・測量士補) 内容確認日:2026-10-12
この記事は制度と手続きの一般的な説明で、個別の事案についての法律・税務の相談や判断ではありません。制度や数字は内容確認日の時点のものです。ご自身の事案は、弁護士・司法書士・税理士・行政書士など、該当する専門家に確かめてください。
参考(公式)
この記事の制度と数字は、次の一次情報で確かめられます(2026-10-12 確認)。
- 裁判所「遺留分放棄の許可」 ― 申立人は遺留分を有する相続人、時期は相続開始前(被相続人の生存中)、申立先は被相続人の住所地の家庭裁判所、費用は収入印紙800円分と連絡用の郵便切手(裁判所ごとに異なる)、必要書類は申立書と被相続人・申立人の戸籍謄本
- e-Gov法令検索「民法」 ― 915条(相続の承認・放棄は、相続の開始があったことを知った時から3か月以内)、938条(相続の放棄は家庭裁判所に申述)、1042条(遺留分の割合)、1049条(相続開始前の遺留分の放棄は家庭裁判所の許可が必要。他の共同相続人の遺留分に影響しない)