藪を出る ―令和の藪の中―
三年前に消えた弟を「探してほしい」と、女は四つの記録を携えて現れる。ドアホン、防犯カメラ、ドラレコ、GPS——令和の町は人の朝を全部覚えているのに、同じ男が同じ朝にいくつもの場所にいた。芥川『藪の中』の現代版。第1話。
第1話「四つの記録」
探し物の依頼は、だいたい二種類に分かれる。
見つかってほしいもの。
見つかってほしくないもの。
その日の依頼人は、椅子に浅く腰かけていた。背筋だけは妙にまっすぐで、両手はハンドバッグの持ち手を握ったまま離れない。五十代前半。薄いベージュの上着。左手に指輪の跡だけが残っている。指輪を外してから何年も経っているのに、本人の中ではまだ外しきれていないような、そんな跡だった。
「弟を、探してほしいんです」
女はそう言った。
探偵事務所に来る人は、最初の一文を何度も練習してくる。車の中で。駅のホームで。事務所のドアの前で。だから最初の一文だけは、たいてい滑らかだ。
問題は、その次だ。
「いつからですか」
「三年前です」
私はペンを止めた。
「三年」
「はい」
「警察には」
「届けました。事件性はない、と」
よくある言葉だった。よくあるから、嫌いだった。
大人が消える。借金か、女か、仕事か、家族か。理由はいくらでも作れる。事件性がないという言葉は、現場で働く人間にとっては整理のための言葉なのだろう。でも、残された側にとっては、ふたをされる音に聞こえる。
「弟さんのお名前は」
「秋山淳です」
「年齢は」
「当時、四十二です」
「仕事は」
「バス会社の整備士でした」
女は「でした」と言った。
生きている人間を探してほしいと言いながら、過去形を使った。
私はその小さな引っかかりを、相談票の端に丸く囲んだ。
「最後に見たのは」
「消えた日の朝です」
「あなたが?」
「はい」
「直接?」
女の手に力が入った。ハンドバッグの革が少しだけ鳴った。
「映像で」
女はそう言って、USBメモリを机の上に置いた。
黒い、小さなものだった。百円ショップでも買える。人の人生が入っているようには見えない。だけど、探偵の机には、そういうものがよく置かれる。小さなメモリ。薄い封筒。折りたたまれたレシート。普通なら捨てられるものの中に、人間の最後の輪郭が残っている。
「弟が消えた日の記録です」
「記録」
「家のドアホン、商店街の防犯カメラ、バスのドラレコ、スマホのGPS。あと、車の走行履歴も」
私は女を見た。
「ずいぶん揃っていますね」
「警察にも出しました」
「でしょうね」
「でも、見つからなかった」
女の声は落ち着いていた。落ち着きすぎていた。
私はパソコンにUSBを挿した。依頼人の前でいきなり再生することはあまりしない。中身によっては、依頼人の心をもう一度殴ることになるからだ。でも今回は、女が私の反応を待っていた。自分が見たものを、もう一人の人間にも見てほしい。そういう待ち方だった。
フォルダはきれいに分けられていた。
01_玄関ドアホン。
02_商店街防犯カメラ。
03_バス車内ドラレコ。
04_GPS履歴。
05_車両見守りログ。
几帳面すぎる。
私は、几帳面な証拠が嫌いだ。証拠はたいてい、もっと汚い。日付がずれている。ファイル名が雑。スマホで撮った画面に指が映り込んでいる。そういう汚さのほうが、人間が触った感じがある。
これは、誰かが見せるために整えた記録だった。
まずドアホンを再生した。
朝七時十二分。玄関のドアが開く。グレーの作業着を着た男が出てくる。右手に黒い鞄。顔は下を向いている。背中が薄い。四十代の男にしては、少し老けて見えた。
「弟さんですか」
「はい」
女は即答した。
次に防犯カメラ。アーケードの商店街。七時二十八分。グレーの作業着の男が歩いている。今度は鞄を左手に持っていた。画質は悪い。だが背格好は似ている。
三つ目。バスのドラレコ。七時四十一分。男が乗り込む。作業着は同じ。鞄はない。整理券を取る手元だけが妙にはっきり映っている。
「鞄、消えていますね」
私は言った。
女は答えなかった。
四つ目。スマホのGPS。地図上の青い線は、家から商店街へ、商店街からバス停へ、きれいに伸びていた。きれいすぎるくらいだった。
五つ目。車の見守りログ。
私はそこで、少しだけ身を乗り出した。
車は、七時五十分に動き出していた。
弟がバスに乗ったあとに、弟の車が別の方向へ走っている。
「これも弟さんの車ですか」
「はい」
「運転していたのは」
「分かりません」
「分からない?」
「だから、お願いに来ました」
私は画面から目を離した。
女は私を見ていなかった。机の上のUSBメモリを見ていた。小さな黒いものを、そこに何かが閉じ込められているみたいに。
「秋山さん」
「はい」
「あなた、弟さんを探してほしいんじゃないですね」
女の顔が、少しだけ固まった。
「どういう意味ですか」
「三年経っている。記録は揃っている。警察にも出している。地元でも噂になったはずです。それでも今日、あなたはこの事務所に来た」
私はUSBを抜いた。
「探してほしい人の持ってくる顔じゃない」
「探偵さんは、顔で仕事をするんですか」
「だいたいそうです」
女は初めて、ほんの少しだけ怒った顔をした。
よかった。
怒る人間は、まだ隠しているものを守ろうとしている。
「では、私は何を頼みに来たんですか」
「それをこれから調べます」
「弟を探すんじゃなくて?」
「弟さんも探します」
「も?」
「あなたが本当に頼みに来たものも探します」
女は黙った。
雨が降り始めていた。窓の外で、道路の白線がぼやけていく。宇都宮の夕方の雨は、町を急に平たくする。車の音も、人の声も、同じ厚さになる。
「料金は高いですよ」
私は言った。
「三年分ですから」
「払います」
女はすぐに言った。
「探して、ください」
私は契約書を出した。
依頼内容の欄に、女は「弟の所在調査」と書いた。
私はその横に、小さく鉛筆で書き足した。
依頼人の沈黙。
女はそれを見た。
「それも、調査対象ですか」
「はい」
「失礼ですね」
「よく言われます」
女はペンを握ったまま、しばらく動かなかった。
それから、契約書に名前を書いた。
秋山律子。
彼女の字は、とても丁寧だった。丁寧すぎる字だった。
私はその字を見て、たぶんこの人は三年間、乱れないように生きてきたのだと思った。乱れたら、そこから何かがこぼれる。こぼれたものを拾う人がいない。だから丁寧に書く。丁寧に話す。丁寧に嘘をつく。
その夜、私は記録を最初から見直した。
ドアホン。
防犯カメラ。
ドラレコ。
GPS。
車の声。
令和の町は、人ひとりの朝を、ほとんど全部覚えていた。
なのに、同じ男が、同じ朝に、いくつもの場所にいた。
百年前なら、人間の証言が食い違った。
いまは、機械まで食い違う。
私は画面の中のグレーの作業着を止めた。
右手の鞄。
左手の鞄。
鞄なし。
そのどれもが、秋山淳に見えた。
そのどれもが、秋山淳ではないようにも見えた。
あなたなら、どれを信じますか。
私はそういう問いが嫌いだ。
信じるかどうかで済むなら、探偵はいらない。
私は画面を拡大した。
信じる前に、見る。
見たくないものまで、見る。
それが仕事だ。