藪を出る ―令和の藪の中―
三年前に消えた弟を「探してほしい」と、女は四つの記録を携えて現れる。ドアホン、防犯カメラ、ドラレコ、GPS——令和の町は人の朝を全部覚えているのに、同じ男が同じ朝にいくつもの場所にいた。芥川『藪の中』の現代版。第1話。
第1話 四つの記録
探し物の依頼は、だいたい二種類に分かれる。
見つかってほしいもの。
見つかってほしくないもの。
その日の依頼人は、椅子に浅く腰かけていた。背筋だけは妙にまっすぐで、両手はハンドバッグの持ち手を握ったまま離れない。五十代前半。薄いベージュの上着。左手に指輪の跡だけが残っている。指輪を外してから何年も経っているのに、本人の中ではまだ外しきれていないような、そんな跡だった。
「弟を、探してほしいんです」
女はそう言った。
探偵事務所に来る人は、最初の一文を何度も練習してくる。車の中で。駅のホームで。事務所のドアの前で。だから最初の一文だけは、たいてい滑らかだ。
問題は、その次だ。
「いつからですか」
「三年前です」
私はペンを止めた。
「三年」
「はい」
「警察には」
「届けました。事件性はない、と」
よくある言葉だった。よくあるから、嫌いだった。
大人が消える。借金か、女か、仕事か、家族か。理由はいくらでも作れる。事件性がないという言葉は、現場で働く人間にとっては整理のための言葉なのだろう。でも、残された側にとっては、ふたをされる音に聞こえる。
「弟さんのお名前は」
「秋山淳です」
「年齢は」
「当時、四十二です」
「仕事は」
「バス会社の整備士でした」
女は「でした」と言った。
生きている人間を探してほしいと言いながら、過去形を使った。
私はその小さな引っかかりを、相談票の端に丸く囲んだ。
「最後に見たのは」
「消えた日の朝です」
「あなたが?」
「はい」
「直接?」
女の手に力が入った。ハンドバッグの革が少しだけ鳴った。
「映像で」
女はそう言って、USBメモリを机の上に置いた。
黒い、小さなものだった。百円ショップでも買える。人の人生が入っているようには見えない。だけど、探偵の机には、そういうものがよく置かれる。小さなメモリ。薄い封筒。折りたたまれたレシート。普通なら捨てられるものの中に、人間の最後の輪郭が残っている。
「弟が消えた日の記録です」
「記録」
「家のドアホン、商店街の防犯カメラ、バスのドラレコ、スマホのGPS。あと、車の走行履歴も」
私は女を見た。
「ずいぶん揃っていますね」
「警察にも出しました」
「でしょうね」
「でも、見つからなかった」
女の声は落ち着いていた。落ち着きすぎていた。
私はパソコンにUSBを挿した。依頼人の前でいきなり再生することはあまりしない。中身によっては、依頼人の心をもう一度殴ることになるからだ。でも今回は、女が私の反応を待っていた。自分が見たものを、もう一人の人間にも見てほしい。そういう待ち方だった。
フォルダはきれいに分けられていた。
01_玄関ドアホン。
02_商店街防犯カメラ。
03_バス車内ドラレコ。
04_GPS履歴。
05_車両見守りログ。
几帳面すぎる。
私は、几帳面な証拠が嫌いだ。証拠はたいてい、もっと汚い。日付がずれている。ファイル名が雑。スマホで撮った画面に指が映り込んでいる。そういう汚さのほうが、人間が触った感じがある。
これは、誰かが見せるために整えた記録だった。
まずドアホンを再生した。
朝七時十二分。玄関のドアが開く。グレーの作業着を着た男が出てくる。右手に黒い鞄。顔は下を向いている。背中が薄い。四十代の男にしては、少し老けて見えた。
「弟さんですか」
「はい」
女は即答した。
次に防犯カメラ。アーケードの商店街。七時二十八分。グレーの作業着の男が歩いている。今度は鞄を左手に持っていた。画質は悪い。だが背格好は似ている。
三つ目。バスのドラレコ。七時四十一分。男が乗り込む。作業着は同じ。鞄はない。整理券を取る手元だけが妙にはっきり映っている。
「鞄、消えていますね」
私は言った。
女は答えなかった。
四つ目。スマホのGPS。地図上の青い線は、家から商店街へ、商店街からバス停へ、きれいに伸びていた。きれいすぎるくらいだった。
五つ目。車の見守りログ。
私はそこで、少しだけ身を乗り出した。
車は、七時五十分に動き出していた。
弟がバスに乗ったあとに、弟の車が別の方向へ走っている。
「これも弟さんの車ですか」
「はい」
「運転していたのは」
「分かりません」
「分からない?」
「だから、お願いに来ました」
私は画面から目を離した。
女は私を見ていなかった。机の上のUSBメモリを見ていた。小さな黒いものを、そこに何かが閉じ込められているみたいに。
「秋山さん」
「はい」
「あなた、弟さんを探してほしいんじゃないですね」
女の顔が、少しだけ固まった。
「どういう意味ですか」
「三年経っている。記録は揃っている。警察にも出している。地元でも噂になったはずです。それでも今日、あなたはこの事務所に来た」
私はUSBを抜いた。
「探してほしい人の持ってくる顔じゃない」
「探偵さんは、顔で仕事をするんですか」
「だいたいそうです」
女は初めて、ほんの少しだけ怒った顔をした。
よかった。
怒る人間は、まだ隠しているものを守ろうとしている。
「では、私は何を頼みに来たんですか」
「それをこれから調べます」
「弟を探すんじゃなくて?」
「弟さんも探します」
「も?」
「あなたが本当に頼みに来たものも探します」
女は黙った。
雨が降り始めていた。窓の外で、道路の白線がぼやけていく。宇都宮の夕方の雨は、町を急に平たくする。車の音も、人の声も、同じ厚さになる。
「料金は高いですよ」
私は言った。
「三年分ですから」
「払います」
女はすぐに言った。
「探して、ください」
私は契約書を出した。
依頼内容の欄に、女は「弟の所在調査」と書いた。
私はその横に、小さく鉛筆で書き足した。
依頼人の沈黙。
女はそれを見た。
「それも、調査対象ですか」
「はい」
「失礼ですね」
「よく言われます」
女はペンを握ったまま、しばらく動かなかった。
それから、契約書に名前を書いた。
秋山律子。
彼女の字は、とても丁寧だった。丁寧すぎる字だった。
私はその字を見て、たぶんこの人は三年間、乱れないように生きてきたのだと思った。乱れたら、そこから何かがこぼれる。こぼれたものを拾う人がいない。だから丁寧に書く。丁寧に話す。丁寧に嘘をつく。
その夜、私は記録を最初から見直した。
ドアホン。
防犯カメラ。
ドラレコ。
GPS。
車の声。
令和の町は、人ひとりの朝を、ほとんど全部覚えていた。
なのに、同じ男が、同じ朝に、いくつもの場所にいた。
百年前なら、人間の証言が食い違った。
いまは、機械まで食い違う。
私は画面の中のグレーの作業着を止めた。
右手の鞄。
左手の鞄。
鞄なし。
そのどれもが、秋山淳に見えた。
そのどれもが、秋山淳ではないようにも見えた。
あなたなら、どれを信じますか。
私はそういう問いが嫌いだ。
信じるかどうかで済むなら、探偵はいらない。
私は画面を拡大した。
信じる前に、見る。
見たくないものまで、見る。
それが仕事だ。
第2話 三人の証言
秋山淳が消えた町までは、車で一時間半だった。
高速を降りると、景色から大きな看板が減っていく。チェーン店の明かりが途切れ、田んぼと、農機具店と、広すぎる駐車場のラーメン屋が続く。北関東には、どこにも似ていないのに、どこかで見たような町がある。
こういう町では、人が消えにくい。
それは都会の人間が思う「監視社会」とは違う。防犯カメラより先に、誰かの目がある。車種、ナンバー、歩き方、洗濯物、玄関先の植木鉢。何も見ていないようで、みんな見ている。
その町で三年見つからないなら、二つの可能性がある。
本当に遠くへ行ったか。
町全体が、見なかったことにしたか。
最初に行ったのは、秋山淳が働いていたバス会社の整備工場だった。
工場の床は黒く濡れていた。油と水と古いタイヤの匂い。大型バスの腹の下から、工具の音がしている。受付の若い社員は、私の名刺を見ると一瞬だけ困った顔をした。
「警察の方では」
「ありません」
「記者さんでも」
「ありません」
「じゃあ」
「探偵です」
若い社員は、もっと困った顔をした。
探偵という肩書きは、相手の中にある古いドラマの引き出しを勝手に開ける。帽子、尾行、浮気、虫眼鏡。私はそのどれも持っていない。持っているのは、安い手帳と、すぐ壊れるボールペンと、やや強めの胃薬だ。
秋山淳の同僚だった男は、整備場の奥から出てきた。五十前後。肩が厚く、手の爪に油が残っている。私の名刺を見て、すぐには受け取らなかった。
「また、その話ですか」
「また、ということは、前にも?」
「警察も来ました。記者も来ました。知らない人も来ました」
「知らない人」
「動画を撮ってる連中です」
男は苦い顔をした。
「秋山さんは、どんな人でしたか」
「まじめでしたよ」
「便利な言葉ですね」
「は?」
「すみません。続けてください」
男は私を少し睨んだ。
怒らせたいわけではない。でも、用意された言葉のまま帰すわけにもいかない。「まじめ」「おとなしい」「いい人」。そういう言葉は、調査の入り口でよく出てくる。便利すぎて、人間の形を消してしまう。
「遅刻は」
「ないです」
「飲みに行くことは」
「ほとんどない。誘っても断る」
「理由は」
「姉さんがいるから、って」
「お姉さんの世話を?」
「世話っていうか。二人だけだったから」
男はそこで、声を落とした。
「親の借金があったんです。あいつ、ずっと返してた」
「姉弟で?」
「ええ」
「消えた朝、秋山さんを見ましたか」
「見ましたよ」
「何時に」
「七時前」
私は手帳を開いた。
「七時前」
「いつも通りです。六時五十分くらいかな。工場に来て、点検表を持って」
「間違いない?」
「間違いないです」
「その日、彼は七時十二分に自宅のドアホンに映っています」
男は黙った。
私はスマホで静止画を見せた。グレーの作業着の男。玄関を出る背中。
「これ、秋山さんですか」
男は画面を見た。
長い沈黙のあと、言った。
「顔、見えないじゃないですか」
「でも、さっきは七時前に見たと」
「見ました」
「なら、これは誰ですか」
「知りませんよ」
「本当に?」
男の目が泳いだ。
人は嘘をつくときだけ目を泳がせるわけではない。本当のことを思い出したくないときも、同じように泳ぐ。
「秋山さん、その朝、何か言いましたか」
「……ありがとう、って」
「何に対して」
「分かりません。俺が工具を貸したのかな。そう思ってました」
「ありがとう、だけ?」
「あと、頼みます、って」
工場の奥で、エアの抜ける音がした。
「何を頼まれたんですか」
「だから、分からないって」
男はウエスを握った。
「あいつ、そういう言い方をするんです。何か決めた時ほど、普通の顔で言う。こっちが後から意味に気づく」
私はその言葉を手帳に書いた。
普通の顔。
後から意味に気づく。
次に会ったのは、近所の主婦だった。
秋山家の斜め向かい。玄関先に空の植木鉢が並び、郵便受けの口が少し曲がっている。女はインターホン越しに私を見て、最初は断った。
「もう話しましたから」
「警察に?」
「そうです」
「私は警察じゃありません」
「だから嫌なんです」
正しい。
私は名刺を郵便受けに入れた。
「五分で帰ります」
「そういう人ほど帰らない」
「では三分で」
扉が少しだけ開いた。
私は玄関先で話を聞いた。家の中から、朝のワイドショーの音が漏れている。画面の中の誰かが、何かを断言していた。
「見たのは七時半ごろです」
「ゴミ出しの時」
「そう。作業着だったから、淳くんだと思って」
「顔は」
「見てません」
「では、なぜ秋山さんだと」
「毎日見てれば分かりますよ」
「毎日見ている人ほど、見間違えます」
女はむっとした。
「失礼ね」
「すみません」
「謝るくらいなら言わなきゃいいのに」
「よく言われます」
女は少しだけ笑いそうになって、すぐに引っ込めた。
「歩き方はどうでした」
「歩き方?」
「秋山さん、左足を少し引きずりますか」
女の顔から表情が消えた。
「そういえば」
「その朝の男は」
「普通に歩いてた……かもしれない」
「かもしれない」
「三年前ですよ」
「はい」
「そんなの、覚えてるわけないじゃない」
「でも、グレーの作業着は覚えている」
女は黙った。
人間の記憶は、都合よく強い。色や音や言葉の一部だけが濃く残り、その周りをあとから物語が埋める。悪意がなくても、記憶は平気で加工される。
「すみません」
女は小さく言った。
「私、見たって言ったほうがいいと思ったんです」
「誰に」
「律子さんに」
私は顔を上げた。
「お姉さんに?」
「あの人、ずっと一人で探してたから。誰も何も言わないより、見たって言ったほうが、少しは」
「楽になると思った」
女はうなずいた。
嘘ではない。
善意でもある。
だから面倒くさい。
三人目は、商店街の煙草屋の老人だった。
店は半分閉まっていた。シャッターの隙間から、古い蛍光灯の光が漏れている。老人はレジの横に座り、私の話を聞きながら、ずっと灰皿を拭いていた。
「淳なら、あの日も来たよ」
「何時ごろですか」
「八時前だな。ガムを買った」
「毎朝?」
「そう。眠気覚ましだって」
「その朝の映像はありますか」
「カメラは壊れてた」
「いつから」
「さあ」
私は店の天井を見た。古い防犯カメラが一台。赤いランプは消えている。
「本当に壊れていましたか」
「疑うのか」
「仕事です」
「嫌な仕事だな」
「はい」
老人は灰皿を置いた。
「あの子は、毎朝来たんだよ」
「その話は聞きました」
「毎朝来る人間が、ある朝だけ来なかったら、覚えてる」
「ある朝だけ来なかったんですか」
老人は一瞬止まった。
「いや、来た」
「どちらですか」
「来たんだよ」
「見ましたか」
「……見たような気がする」
私はそれ以上責めなかった。
老人の中では、秋山淳は毎朝ガムを買いに来る男だった。だから失踪した朝も来たことになっている。記憶は、ときどき人間を守る。毎朝の習慣が、ある日突然途切れたことを認めるより、いつも通りだったと思うほうが楽だからだ。
工場の同僚は、七時前に見たと言った。
主婦は、七時半に家の前で見たと言った。
煙草屋の老人は、八時前に店で見たと言った。
三人とも、嘘つきの顔ではなかった。
三人とも、少しずつ本当のことを言っていた。
だが同じ朝、同じ男が三つの場所にいることはできない。
できない。
絶対に無理。
私はその「絶対に無理」を、手帳の真ん中に大きく書いた。
探偵の仕事は、可能性を広げることではない。
無理なものに、無理だと言うことだ。
その夜、町に泊まる場所はなかった。駅前のビジネスホテルは工事関係者で埋まっていた。私は国道沿いのファミレスに入り、奥の席で記録を並べ直した。
ドリンクバーのコーヒーは、何杯飲んでも同じ薄さだった。
工場、家の前、商店街。
三つの証言。
四つの記録。
車の走行履歴。
どこかに、人間の手が入っている。
私は防犯カメラの映像を拡大した。
作業着の男の足元。
左足を引きずっていない。
私はそこで初めて、小さく声に出した。
「別人だ」
ファミレスの隣の席で、学生らしい二人組が笑っていた。
私は笑わなかった。
画面の中で、秋山淳ではない男が、秋山淳の服を着て歩いていた。
第3話 車の記憶
秋山淳の車は、姉の家の車庫に置かれていた。
白い軽自動車。十年落ち。タイヤは少し潰れ、ボンネットには雨の跡が白く残っていた。三年動いていない車は、家の一部になりかけている。車庫の奥で、家具のように黙っていた。
「鍵は」
私は聞いた。
秋山律子は、玄関の小皿から鍵を取ってきた。
「弟の部屋にありました」
「部屋はそのままですか」
「はい」
「見せてください」
律子は答えるまでに、二秒かかった。
その二秒を、私は覚えた。
部屋は二階の奥だった。六畳。机、本棚、古いテレビ、畳んだ作業着。壁にカレンダーが掛かったままになっている。失踪した年の四月で止まっていた。
作られた部屋だった。
生活の匂いがない。三年経っているからではない。三年誰も触らなかった部屋は、もっと雑に古びる。これは、誰かが「触っていない部屋」に見えるように、時々整えている。
「掃除していますね」
「埃がたまるので」
「弟さんの部屋を?」
「おかしいですか」
「おかしくはありません」
「じゃあ」
「でも、理由にはなります」
律子は私を見た。
「何の」
「あなたが、まだここを事件現場として保っている理由です」
私は机の引き出しを開けた。律子が少し動いた。
「勝手に」
「契約書に、室内確認の同意はもらっています」
「そういう意味では」
「分かっています」
引き出しには、整備士の資格証のコピー、古い給与明細、ボールペン、結束バンド、車の取扱説明書が入っていた。
私は取扱説明書を開いた。
見守りサービスのページに、付箋が貼ってあった。
「これはあなたが?」
「はい」
「いつ」
「忘れました」
「忘れていませんよね」
律子は黙った。
私は付箋を見た。角が少し黒ずんでいる。三年前のものではない。もっと最近貼られたものだ。
「車のログを見られる端末は、あなたのスマホだけですか」
「そうです」
「本当に?」
「そうです」
「では、これは何ですか」
私はUSBに入っていたログの設定画面を印刷して持ってきていた。
連携端末、二台。
一台目、秋山律子。
二台目、端末名なし。
律子の顔色が変わった。
「知らないです」
「知らないなら調べます」
「どうやって」
「それを説明すると、だいたい嫌な顔をされます」
「今でも十分、嫌な顔をしています」
「ありがとうございます」
「褒めてません」
「分かっています」
私は車に乗り込んだ。
エンジンはかからなかった。バッテリーが死んでいる。車内には、古い芳香剤と湿った布の匂いが残っていた。助手席の足元に、ガムの包み紙がひとつ落ちている。煙草屋で売っていた銘柄と同じだった。
「これ、弟さんのものですか」
「たぶん」
「たぶん」
「あの子、よく噛んでいたから」
私は包み紙を手袋越しに拾った。
後部座席には、作業着の袋があった。中身は空。クリーニング店のタグだけが残っている。
「作業着は何着ありましたか」
「会社の貸与品が二着」
「ほかには」
「自分で買ったものが一着」
「同じ型?」
「はい」
「なぜ」
「汚れるから」
「整備士は汚れるでしょうね」
「そうです」
「でも、同じ型を自分で買う必要はない」
律子は答えなかった。
私は車庫の床を見た。タイヤの跡が薄く残っている。三年放置された車の下にある跡にしては、少し新しい。
「この車、最近動かしましたか」
「動かしていません」
「バッテリーは」
「切れています」
「誰が確認しました」
「私が」
「いつ」
「……半年前」
「なぜ」
「気になったから」
「何が」
律子は私の質問に疲れてきていた。疲れた人間は、雑な嘘をつく。私はそこを待っている。
「弟が帰ってきた時、動かないと困ると思ったんです」
言ってから、律子は唇を噛んだ。
帰ってくると思っている。
あるいは、帰ってこないことを知っているから、帰ってきた時の話をする。
私は何も言わなかった。
その日の午後、見守りサービスを扱っていたディーラーへ行った。
受付の女性は、個人情報なので出せない、と当然のことを言った。
「当然ですね」
「はい」
「では、令状を持ってくるしかないですか」
「警察の方ですか」
「違います」
「でしたら」
「契約者本人の同意書があります」
私は律子に書かせた同意書を出した。
受付の女性は上司を呼んだ。上司はネクタイを直しながら来た。面倒な客を見る顔だった。
「三年前のログは、保管期限が」
「USBに入っている分は残っています」
「では、そちらで」
「改ざんの有無を確認したい」
「改ざんという言葉は」
「では、編集の有無」
「それも」
「人が一人消えています」
私は声を少し低くした。
「あなたの会社のサービスが、その人の最後の移動を記録している。警察がもう動かないなら、こちらで確認するしかありません」
「それでも、規定が」
「規定は分かります」
「では」
「分かることと、引き下がることは別です」
上司はため息をついた。
こういう場面で、強い言葉を使えばいいわけではない。怒鳴れば、相手は規定の後ろに隠れる。必要なのは、相手が「ここで断る方が面倒だ」と思うところまで、静かに立っていることだ。
結果、私はログそのものではなく、当時の連携端末の変更履歴だけを見ることができた。
二台目の端末が追加されたのは、失踪の一週間前。
削除されたのは、失踪の翌日。
端末名は空欄。
ただし、登録時の確認メールアドレスが残っていた。
数字と英字の羅列。
その中に、akiyamaではない文字列があった。
私はメモした。
matsu。
秋山ではない。
松、から始まる誰か。
私は工場で会った同僚の名前を思い出した。
松永。
七時前に秋山淳を見た男。
ありがとう、と言われた男。
頼みます、と言われた男。
私はディーラーの駐車場で、しばらく車の中にいた。
見守りサービス。
親切な機能。
家族のための記録。
だが記録は、使う人間によって刃物にもなる。守るためのものが、隠すためにも使われる。
車は嘘をつかない。
でも、車に嘘の役を与える人間はいる。
第4話 十二秒の電話
公衆電話は、県道沿いの古い雑貨店の前にあった。
緑色の箱。ガラスは曇り、足元には乾いた土が溜まっていた。今どき使う人はほとんどいない。スマホが圏外になる場所でもない。けれど、三年前の朝、秋山淳の車はここに四分間停まっていた。
私は電話ボックスの中に入った。
狭い。
暑い。
古いプラスチックの匂いがする。
受話器を持ち上げると、まだ生きていた。小さな発信音が耳に入る。その音を聞いた瞬間、三年前の朝に誰かがここに立っていたことが、急に生々しくなった。
車が停まる。
誰かが降りる。
受話器を取る。
番号を押す。
十二秒だけ話す。
そして、また車に戻る。
十二秒。
人を救うには短すぎる。
人を壊すには、十分な長さだ。
通話記録そのものを取るのは簡単ではない。私は簡単ではないことが嫌いではないが、無茶を美談にする趣味もない。正面から取れないものは、周りから見る。
雑貨店の店主は、当時のことを覚えていなかった。
「三年前の朝なんて、分かんないよ」
「電話を使う人は多かったですか」
「ほとんどいない」
「なら、覚えていませんか」
「覚えてないもんは覚えてない」
正しい。
私は店内を見た。レジ横に防犯カメラのモニターがある。
「カメラは三年前から?」
「あるよ」
「データは」
「残ってるわけないだろ」
「ですよね」
帰ろうとした時、店主が言った。
「でも、あの頃、電話会社の人が来たな」
「電話会社」
「撤去するかどうかの確認だって。使われてないから」
「いつ頃」
「あの男が消えたあとかな。騒ぎになってたから覚えてる」
私は振り返った。
「あの男」
「整備士の」
「町では有名だったんですか」
「有名っていうか、ここらじゃ人が消えれば有名になるよ」
店主はレジ袋を畳みながら言った。
「でも、あれは消えたって感じじゃなかったな」
「どういう意味ですか」
「みんな、知ってる顔してた」
私は店主を見た。
「誰が」
「町の人間が」
「何を」
「さあ」
「そこ、いちばん大事です」
「知らないよ。ただ、驚いてない顔ってあるだろ」
ある。
私は何度も見てきた。
本当に何も知らない人間の驚きは、少し汚い。言葉が散る。目が泳ぐ。関係ないことを言う。だが、知っていた人間が驚くと、妙に整っている。「まさか」「信じられない」「あの人が」。そういう言葉が、順番通りに出る。
秋山淳の失踪を、町はどんな顔で受け止めたのか。
私はもう一度、姉の家へ行った。
律子は台所で麦茶を出した。グラスに氷が三つ。コースターまで置かれている。
「お構いなく」
「探偵さんは、そう言いながら飲みますよね」
「出されたものを飲まないと、感じが悪いので」
「感じを気にするんですか」
「仕事に支障が出る程度には」
私は麦茶を一口飲んだ。
薄かった。
「公衆電話から、あなたの家に電話がありました」
律子の手が止まった。
「三年前の朝。通話時間は十二秒」
「知っています」
「前回は、弟さんから連絡はなかったと言いました」
「言いました」
「嘘ですね」
「はい」
早かった。
早すぎる。
私はグラスを置いた。
「どうして嘘を」
「嘘をつかないと、終わらないからです」
「何が」
「あの子の失踪が」
律子は私を見ていた。
初めて、まっすぐに。
「電話で何を言われましたか」
「ありがとう、と」
「ほかには」
「ごめん」
「本当に」
「本当に」
「十二秒です」
「言えます」
「ありがとう、ごめん。それだけなら、五秒で終わります」
律子は唇を結んだ。
私は畳みかけなかった。
畳みかけると、人は嘘の中に戻る。待つ。沈黙が相手の中に沈んでいくまで、待つ。
律子はグラスの水滴を指でなぞった。
「最後に、姉さん、と言いました」
「それだけ?」
「それだけです」
「声は弟さんでしたか」
「……分かりません」
私は黙った。
「分からないんです」
律子は小さく言った。
「三年間、何度も思い出しました。あれは淳だったのか。淳の声だったのか。電話って、変でしょう。近いのに、遠い。本人みたいで、本人じゃない」
「録音は」
「ありません」
「相手は泣いていましたか」
「いいえ」
「急いでいましたか」
「いいえ」
「怖がっていましたか」
「いいえ」
「では、どんな声でした」
律子は少し考えた。
「決めた人の声でした」
私は手帳に書いた。
決めた人の声。
工場の同僚も似たことを言っていた。普通の顔。後から意味に気づく。
秋山淳は、突然消えたのではない。
準備していた。
そして、その準備を、誰かが手伝っていた。
「松永さんをご存じですね」
律子のまぶたが、わずかに動いた。
「工場の同僚です」
「車の見守りサービスに、二台目の端末が登録されていました」
「知りません」
「メールアドレスにmatsuが入っていました」
「松永さんとは限りません」
「そうですね」
「だったら」
「だから、これから会いに行きます」
律子は立ち上がりかけた。
「やめてください」
「なぜ」
「あの人は関係ありません」
「関係ないなら、会っても問題ありません」
「探偵さん」
律子は初めて、私の名前ではなく職業を呼んだ。
「お願いです」
「何を」
「藪の中に、入らないでください」
私はその言葉を、しばらく聞いていた。
「残念ですが」
「はい」
「もう入っています」
律子の顔が歪んだ。
「それに、私は藪の中で立ち止まるために雇われたんじゃない」
「弟を見つけるために」
「違います」
私は言った。
「あなたが本当に隠したいものを、見つけるためです」
律子は何も言わなかった。
その沈黙は、同意に近かった。
第5話 もうひとりの弟
松永は、工場の裏手で煙草を吸っていた。
火はついていなかった。指に挟んでいるだけだった。喫煙所の灰皿には、雨水が溜まっている。
「また来たんですか」
「はい」
「しつこいですね」
「それもよく言われます」
「でしょうね」
松永は煙草を箱に戻した。
「車の見守りサービスに、あなたの端末が登録されていました」
松永は笑わなかった。
否定もしなかった。
「秋山さんに頼まれたんですか」
「何を」
「とぼけるには遅いです」
「探偵って、みんなそういう言い方するんですか」
「人によります」
「あなたは嫌な方ですね」
「ありがとうございます」
「だから褒めてない」
私は少しだけ笑った。
松永は笑わなかった。
「あいつに頼まれました」
松永は言った。
「一週間だけでいいから、車の位置を見ていてくれって」
「なぜ」
「姉さんが心配だから、と」
「逆でしょう」
「ええ。今なら分かります」
松永は工場の壁にもたれた。
「あいつ、消えるつもりだったんですね」
「当時は気づかなかった?」
「気づきたくなかった」
正直な答えだった。
「失踪した朝、あなたは秋山さんを見ましたね」
「見ました」
「七時前に」
「はい」
「どこで」
「工場で」
「その後は」
「あいつは点検表を置いて、すぐ出ていきました」
「どこへ」
「知らない」
「あなたは、もう一着の作業着を持っていましたか」
松永の目が細くなった。
「何の話ですか」
「防犯カメラの男は、秋山さんではありません」
「そうですか」
「左足を引きずっていない」
「たまたまでしょう」
「歩き方は、たまたま変わりません」
「急いでたんじゃないですか」
「秋山さんは急いでも左足をかばる」
松永は黙った。
「あなたが歩きましたね」
「証拠は」
「ありません」
「なら」
「でも、あなたは今、否定するタイミングを間違えた」
松永は顔を上げた。
「作業着の話をした時、あなたは『持っていない』と言わなかった。『何の話ですか』と言った。知らない人間の否定じゃない」
「言葉尻ですか」
「はい」
「くだらない」
「くだらないことで、人は崩れます」
松永は工場の奥を見た。バスのエンジン音が低く響いている。
「俺は、あいつを逃がしていません」
「では、何をしたんですか」
「歩いただけです」
「どこを」
「商店街を」
「秋山さんの作業着を着て?」
「はい」
「鞄は」
「持った」
「右手ですか、左手ですか」
松永は一瞬、口を閉じた。
「左です」
「防犯カメラと同じ」
「あいつに言われたんです」
「何を」
「右手で持つなって。俺は右利きだから、普通なら右で持つ。だから左で持てって」
秋山淳は、細かい。
細かすぎる。
自分ではない自分を作るために、手の違和感まで設計している。
「なぜ手伝ったんですか」
「友達だから」
「それだけ?」
「それだけじゃ足りませんか」
「足りません」
松永は怒った顔をした。
「あなた、何でも理由がないと気が済まないんですか」
「はい」
「人が人を助けるのに、理由が必要ですか」
「必要です」
私は言った。
「理由がない善意は、あとで誰かを傷つけます」
松永は言い返そうとして、やめた。
雨が強くなっていた。工場の屋根を叩く音が、会話の間に入り込む。
「あいつは、借金を返し終わった月に言ったんです」
松永は低い声で話し始めた。
「俺がいる限り、姉さんは姉さんをやめられないって」
「姉をやめる」
「あの人、ずっと母親みたいだった。親が死んでから、姉じゃなくて、母親になった。あいつはそれが苦しかった」
「自分が?」
「姉さんが」
松永は言った。
「自分のために生きてほしかったんです」
「だから消える」
「めちゃくちゃですよね」
「はい」
「でも、あいつは本気でした」
「止めなかったんですか」
「止めました」
「どうやって」
「怒鳴った。殴りかけた。警察に言うぞとも言った」
「それで」
「あいつ、笑ったんです」
松永は目を伏せた。
「『ありがとう』って」
また、ありがとう。
秋山淳は、いろんな場所にありがとうを置いて消えている。
礼儀正しい人間は、怖い。
怒るより先に礼を言う人間は、もう決めている。
「あなたは、秋山さんの計画をどこまで知っていましたか」
「俺が商店街を歩く。ガムを買うふりをする。途中で作業着を脱いで、会社のロッカーに戻す。それだけです」
「車は」
「知らない」
「公衆電話は」
「知らない」
「姉への電話も」
「知らない」
嘘ではなさそうだった。
だが、嘘でないことは、十分でない。
「秋山さんは、あなたに何を頼みましたか」
「さっき言ったでしょう」
「正確に」
松永はしばらく黙った。
「俺を、もうひとりの俺にしてくれ」
私はその言葉を手帳に書いた。
もうひとりの俺。
令和の町で人が消えるには、姿を消すだけでは足りない。
記録に残る自分を、増やす必要がある。
秋山淳は、自分を増やした。
ドアホンの自分。
商店街の自分。
バスに乗った自分。
車を走らせた自分。
そして、そのどれもが少しずつ違う。
真実が増えるほど、真実は見えなくなる。
「あなたは、罪悪感がありますか」
私は聞いた。
松永は鼻で笑った。
「ありますよ」
「どの部分に」
「あいつを逃がしたことじゃない」
「では」
「三年経って、ほっとしていることです」
松永は工場の中を見た。
「あいつがいなくなって、工場は普通に回っています。俺も普通に働いてる。人が一人消えても、仕事は続く。それが、時々すごく嫌になる」
「それは、まともです」
「慰めですか」
「違います」
「じゃあ」
「記録です」
私は手帳を閉じた。
「あなたの罪悪感も、調査対象です」
松永は少しだけ笑った。
「嫌な探偵だ」
「はい」
私は車に戻った。
これで、もうひとりの弟は見つかった。
だが、まだ足りない。
松永は商店街を歩いた。
秋山淳は工場から消えた。
車は公衆電話まで走った。
バスに乗った男は、誰だったのか。
私はドラレコの映像を、もう一度開いた。
七時四十一分。
整理券を取る手。
顔は映っていない。
手の甲に、小さな傷があった。
秋山淳の手に、そんな傷はあっただろうか。
私は、秋山律子の手を思い出した。
ハンドバッグを握りしめていた、あの手。
右手の甲に、薄い火傷の跡があった。
第6話 バスに乗った姉
秋山律子の職場は、町外れの食品工場だった。
パート勤務。朝八時半から午後三時まで。失踪当日も出勤していたと、記録には残っている。タイムカードのコピーもUSBに入っていた。
八時二十一分、打刻。
律子の家から工場までは車で十五分。
だが、バス停から食品工場までは、徒歩で十二分。
私はバス会社に戻り、三年前の路線図と時刻表を出してもらった。受付の若い社員はまた困った顔をしたが、松永が奥から出てきて「出してやって」と言った。
「いいんですか」
「もういいです」
松永はそう言った。
路線図を見ると、秋山家の近くのバス停から、食品工場の近くまで行ける便があった。七時四十一分乗車。八時六分下車。そこから歩けば、八時二十一分の打刻には間に合う。
ドラレコの男は、秋山淳ではない。
男でもない。
私は映像を止めた。
整理券を取る手。
右手の甲の火傷跡。
秋山律子。
姉は弟の作業着を着て、バスに乗った。
松永が商店街を歩き、律子がバスに乗り、誰かが車を走らせた。
秋山淳は、自分を三人に増やしたのではない。
姉と友人と車を使って、町の記録の中に、自分の残像をばらまいた。
私は律子の家へ行った。
その日は、玄関で待たされた。中から食器を洗う音がした。数分後、律子が出てきた。
「今日は何ですか」
「バスに乗りましたね」
律子は目を閉じた。
否定しなかった。
「弟さんの作業着を着て」
「はい」
「鞄は持たなかった」
「持てませんでした」
「なぜ」
「手が震えて」
律子は右手を左手で包んだ。
「あの日、私は淳になれなかった」
「松永さんは商店街を歩いた」
「はい」
「あなたはバスに乗った」
「はい」
「車を運転したのは」
律子は黙った。
「弟さんですね」
「……はい」
「なら、秋山さんは七時五十分まで町にいた」
「はい」
「公衆電話から電話をした」
「はい」
「その後、どこへ」
「知りません」
「車のログは、最後の座標まで残っている」
「知っています」
「見ましたね」
「見ました」
「なら、居場所を知っている」
「知っています」
律子は、ひとつずつ認めた。
認めるたびに、顔から色が落ちていく。
人間は、嘘を守るために力を使う。嘘を手放す時、力も一緒に抜ける。
「それでも、探してほしいと依頼した」
「はい」
「なぜ」
「会いに行けないからです」
私は玄関の上がり框に座った。律子は立ったままだった。
「行けばいい」
「無理です」
「なぜ」
「あの子が、また消えるから」
「あなたから?」
「私から」
律子は笑った。笑いにはなっていなかった。
「淳は、私を自由にするために消えたんです。私が会いに行ったら、あの子の三年が無駄になる」
「あなたの三年は」
「私はいいんです」
「よくない」
自分でも驚くくらい、強い声が出た。
律子が顔を上げた。
「よくないです」
私はもう一度言った。
「あなたは依頼人です。弟さんのための道具じゃない」
「探偵さんに何が分かるんですか」
「分かりません」
「なら」
「だから聞いています」
私は律子を見た。
「あなたは、弟さんを逃がしたんですか」
「はい」
「本当に?」
「はい」
「違います」
律子の表情が止まった。
「あなたは弟さんに、逃がしたと思わされている」
「違う」
「公衆電話の十二秒。弟さんは『ありがとう』と『ごめん』と言った。あなたはそれを、弟を逃がした合図だと思った」
「そうです」
「でも、弟さんはあなたに逃がされたかったんじゃない」
「違う」
「あなたを、姉という役から逃がしたかった」
「違う」
律子は首を振った。
その顔は怒っているようで、泣きそうでもあった。
「そう思わないと、あなたは弟さんを探し続ける。自分が助けたと思えば、探さなくて済む。弟さんは、それを分かっていた」
「やめてください」
「やめません」
「お願いです」
「私はあなたに雇われています」
「だから」
「だから、目を逸らしません」
律子は声を出さずに泣いた。
私は、泣いている人にハンカチを出すのが下手だ。出すタイミングが分からない。出せばいいのに、といつも思う。なのに、手が遅れる。
その時も遅れた。
律子は自分の袖で涙を拭いた。
「私は、あの子を助けたかった」
「はい」
「本当に」
「はい」
「なのに」
律子は玄関の床を見た。
「助けられていたのは、私だったんですか」
私はすぐには答えなかった。
簡単に答えるには、重すぎる。
「まだ分かりません」
「探偵なのに」
「探偵なので」
私は立ち上がった。
「弟さんに会ってきます」
律子の顔が強張った。
「やめて」
「会います」
「会わないで」
「無理です」
「また、消えます」
「その時は」
私は言った。
「今度は、私が見ています」
律子は何も言えなかった。
私はその日のうちに、車の最後の座標へ向かった。
第7話 海へ出る道
秋山淳の車が最後に停まった場所は、海沿いの町だった。
北関東の藪を抜け、県境を越え、工場地帯と風力発電の白い柱が見えてくる。観光地の海ではない。砂浜より先に、倉庫と大型トラックと、錆びたガードレールが目に入る海だ。
私はその海が嫌いではない。
きれいな景色だけでできていない場所は、信用できる。
車のログは、港近くのアパートで終わっていた。二階建て。外階段。駐車場には軽トラックが三台。秋山淳の白い軽自動車はなかった。三年経っている。処分したのか、どこかへ移したのか。
私は管理会社に電話をした。
当然、入居者情報は出せない。
当然だ。
当然だが、当然で終わっていたら探偵は電話代を払うだけの人になる。
私は近くの工場を回った。機械整備、金属加工、漁協の倉庫、運送会社。秋山淳は整備士だ。機械のそばから遠くへ行くとは思えなかった。
三件目の小さな工場で、彼の名前が出た。
「秋山? いや、うちにはいないな」
社長はそう言った。
だが、壁の勤務表に「佐原」という名前があり、その横の筆跡が、USBの中にあった点検表の字に似ていた。
「佐原さんは」
「外に出てる」
「何時ごろ戻りますか」
「さあ」
「待ちます」
「困るんだけど」
「私も困っています」
「警察?」
「探偵です」
「もっと困る」
社長は頭を掻いた。
工場の事務所で待っている間、私は壁に貼られた安全標語を読んだ。「慣れた作業に事故がある」。いい言葉だった。人間関係にも貼っておきたい。
一時間後、男が戻ってきた。
作業着姿。四十代半ば。少し痩せている。左足を、ほんの少しだけ引きずっていた。
私は立ち上がった。
「秋山淳さんですね」
男は驚かなかった。
その顔を見た瞬間、私は少し腹が立った。
来ると思っていた顔。
いつか誰かがここまで来ると、ずっと知っていた顔。
「今は佐原です」
「戸籍も?」
「いいえ」
「では秋山さんです」
男は困ったように笑った。
「姉が頼んだんですか」
「はい」
「やっぱり」
「やっぱり、じゃない」
私の声が強くなった。
工場の社長が「おい」と言いかけたが、私は手で制した。
「三年です」
秋山は黙った。
「あなたは三年、姉に自分を助けたと思わせていた」
「必要でした」
「誰に」
「姉に」
「本当に?」
秋山は私を見た。
「あなたは誰ですか」
「探偵です」
「姉に雇われた」
「そうです」
「なら、姉の味方ですね」
「いいえ」
私は言った。
「事実の味方です」
「冷たいですね」
「よく言われます」
「でしょうね」
秋山は社長に頭を下げ、早退の許可をもらった。私たちは海沿いのコンビニまで歩いた。港の風は強く、髪が何度も顔にかかった。
秋山は缶コーヒーを二本買った。
「飲みますか」
「いただきます」
「毒は入っていません」
「それを言う人の飲み物は、少し飲みにくいです」
秋山は初めて笑った。
彼の笑い方は、律子に少し似ていた。
「姉は元気ですか」
「元気ではありません」
「でしょうね」
「でしょうね、じゃない」
私は缶コーヒーを開けた。
「あなた、ずいぶん人に“ありがとう”を置いてきましたね」
秋山の表情が変わった。
「松永さんにも。お姉さんにも。たぶん、他にも」
「感謝していましたから」
「違います」
「違う?」
「あなたのありがとうは、鍵です」
秋山は黙った。
「言われた側が、あとから意味を探すようにできている。松永さんは、自分が何を頼まれたのか三年間考え続けた。お姉さんは、十二秒の電話を三年間聞き直し続けた」
「録音はない」
「頭の中で」
秋山は海のほうを向いた。
風が強い。
工場の音が遠くで低く鳴っている。
「姉を自由にしたかった」
「それは聞きました」
「本当です」
「本当でしょうね」
「なら」
「本当だから、厄介なんです」
私は言った。
「あなたは善意で、人を縛った」
秋山は振り返った。
「俺が?」
「はい」
「姉を?」
「はい」
「逆です。俺がいたら、姉はずっと姉のままだった」
「あなたが消えても、律子さんはずっと姉のままでした」
秋山は黙った。
「部屋を掃除し、車を残し、ログを見て、公衆電話の十二秒を覚えている。あなたが消えたことで、律子さんはあなたから自由になったんじゃない。あなたの不在を管理する仕事を始めたんです」
秋山の手が、缶コーヒーを少しへこませた。
「そんなつもりじゃ」
「つもりじゃないことでも、人は傷つきます」
私は言った。
「探偵を雇う人は、だいたい誰かの“そんなつもりじゃ”で傷ついています」
秋山は長い間、海を見ていた。
「姉に、会えと言うんですか」
「いいえ」
「では」
「あなたが決めてください」
「無責任ですね」
「あなたの人生です」
「探偵なら、答えを出すんじゃないんですか」
「出せる答えと、出してはいけない答えがあります」
私は缶コーヒーを飲み干した。
「ただし、報告書には書きます」
「何を」
「あなたを見つけたこと」
秋山の顔が硬くなった。
「姉に?」
「依頼人ですから」
「やめてください」
「無理です」
「探偵さん」
「私は嘘の報告書を書きません」
言ってから、胸の奥が少し痛んだ。
本当に?
私はこれまで一度も、嘘の報告書を書かなかったと言えるのか。
依頼人が壊れないように、言葉を弱めたことはある。見つけたものを、あえて書かなかったこともある。真実を全部並べれば正しい、と思っていた時期は、もう過ぎていた。
それでも。
今回は、見なかったことにはできない。
秋山淳は生きている。
姉はそれを知りながら、知らないふりをしている。
二人は互いを守るために、互いを藪の中に閉じ込めた。
なら、誰かが出口の場所を言わなければならない。
「報告書には、あなたの住所は書きません」
私は言った。
「職場も書きません」
「それは嘘では」
「省略です」
「便利ですね」
「はい」
「ずるい」
「はい」
秋山は少し笑った。
その笑いには、疲れがあった。
「姉に、伝えてください」
「自分で」
「まだ無理です」
「何を」
秋山は少し考えた。
「ありがとうは、もう言わない、と」
私は首を振った。
「それも自分で言ってください」
「厳しい」
「仕事です」
港の風が、空き缶を転がした。
秋山はそれを拾って、ゴミ箱に入れた。
そういう人間だった。
世界を大きく変えることはできないが、目の前の空き缶は拾う。そういう人間が、一番面倒な消え方をした。
第8話 藪の中の姉弟
私は律子に電話をした。
見つけました、とは言わなかった。
会いました、と言った。
電話の向こうで、律子は長く黙った。
「生きていましたか」
「はい」
「そうですか」
それだけだった。
泣かない。
叫ばない。
笑わない。
律子は、ずっと知っていた答えを、他人の声で聞いただけだった。
「会いますか」
「会いません」
「即答ですね」
「会ったら、だめです」
「誰が決めましたか」
「私です」
「本当に?」
律子は黙った。
「弟さんに言われたことを、あなたが自分の決定として持ち続けているだけでは」
「探偵さん」
「はい」
「あなた、嫌な人ですね」
「今日三回目です」
「数えているんですか」
「仕事柄」
律子は電話の向こうで、少しだけ息を吐いた。
「報告書をください」
「分かりました」
「それで終わりにします」
「終わりますか」
「終わらせます」
電話は切れた。
私は事務所に戻り、報告書を書き始めた。
探偵の報告書は、感情を書く場所ではない。日時、場所、対象者、確認事項。見たものを、見た順番に、できるだけ余計な色をつけずに書く。
だが、今回の報告書は、普通に書けば誰かを壊す。
秋山淳は生存。
現在、海沿いの町で別名にて就労。
依頼人の認識通り、失踪は計画的。
協力者は松永および依頼人本人。
公衆電話からの通話あり。
これをそのまま並べれば、律子は自分が三年間抱えてきた物語を失う。
だが書かなければ、律子は永遠に弟の不在を管理する。
私はキーボードから手を離した。
窓の外では、夜の道路を車が流れていた。誰もがどこかへ帰るような顔をしている。実際には、帰る場所のない人もいる。帰る場所があるのに帰れない人もいる。帰らないことで、誰かを守っているつもりの人もいる。
私は報告書ではなく、別紙を作った。
時系列表。
三年前の朝。
六時五十分、秋山淳、工場に出勤。松永に接触。
七時十二分、ドアホンに作業着の人物。時刻表示に四分のずれ。
七時二十八分、商店街防犯カメラに松永と推定される人物。
七時四十一分、バス車内ドラレコに律子と推定される人物。
七時五十分、秋山淳の車が移動開始。
八時前、公衆電話から秋山家へ十二秒の通話。
その後、車は海沿いの町へ。
私は時系列表を見た。
こうして並べると、ひどく冷たい。
だが、人間の悲しみも、時系列にすると少し扱える形になる。扱える形にしないと、人はいつまでも同じ場所に立ってしまう。
翌日、律子が事務所に来た。
同じベージュの上着。ハンドバッグ。丁寧な髪。だが、前より少しだけ疲れて見えた。
「報告書です」
私は封筒を出した。
律子はすぐには開けなかった。
「ここで読んでも?」
「はい」
律子は封筒を開け、報告書を読んだ。
読み終えるまで、表情はほとんど変わらなかった。
最後の別紙で、手が止まった。
「この時系列」
「はい」
「私、こういうふうに見たことはありませんでした」
「そうでしょうね」
「ずっと、場面で覚えていました」
「場面」
「作業着を着たこと。バスに乗ったこと。電話の音。淳の声。車のログ。全部、ばらばらに」
律子は紙を見つめた。
「並べると、ひどいですね」
「はい」
「私たち、何をしていたんでしょう」
「弟さんを消していました」
律子は目を閉じた。
「私も?」
「あなたも」
「助けたつもりでした」
「はい」
「淳も?」
「たぶん」
「二人とも、助けたつもりで」
「互いを消した」
律子は報告書を膝の上に置いた。
沈黙が長かった。
私は時計を見なかった。
こういう沈黙に、時間を測る音は邪魔だ。
「探偵さん」
「はい」
「あの子は、何か言っていましたか」
「自分で言うべきことを、私に言わせようとしました」
律子が少しだけ笑った。
「あの子らしい」
「断りました」
「あなたらしい」
「まだ数回しか会っていません」
「分かります」
律子は報告書を封筒に戻した。
「私、会いに行くべきでしょうか」
「知りません」
「冷たい」
「はい」
「でも、そうですね」
律子は立ち上がった。
「自分で決めます」
その言葉を聞いて、私はようやく少しだけ息を吐いた。
弟に決められた人生ではなく。
弟を守るための人生でもなく。
自分で決める。
たぶん、それがこの依頼の本当の目的だった。
律子は帰り際、ドアの前で振り返った。
「ありがとうございました」
私は一瞬、返事に迷った。
ありがとうは、今回は少し怖い言葉だった。
「領収書、必要ですか」
結局、私はそう言った。
律子は初めて、ちゃんと笑った。
第9話 弟の注釈
三日後、事務所に封筒が届いた。
差出人はなかった。
中には、コピー用紙の束が入っていた。新聞の切り抜き、ネット掲示板の印刷、当時の捜索チラシ、地元の噂を書き留めたメモ。そのすべてに、赤いペンで注釈が入っていた。
字を見て、すぐに分かった。
秋山淳だ。
新聞の見出し。
「整備士男性、行方不明」
横に赤字。
行方不明ではない。自分で行った。
掲示板の書き込み。
「姉が怪しい」
横に赤字。
姉は怪しい。だが悪くない。
別の書き込み。
「借金で逃げた」
赤字。
借金は返した。逃げたのは、返した後。
私は一枚ずつ読んだ。
秋山淳は、自分の失踪を三年間追いかけていた。町の噂を読み、姉の動きを気にし、松永が何も話していないか確認し、自分が作った藪が崩れていないかを見続けていた。
自由になった人間のすることではない。
私は電話をかけた。
秋山は出なかった。
メールを送った。
返事はなかった。
私は海沿いの町へ行った。
工場に秋山はいなかった。
「昨日で辞めた」
社長は言った。
「どこへ」
「知らない」
「本当に?」
「本当に。あいつ、すみませんって頭下げて、そのまま」
また消えた。
私は自分の失敗を、すぐに理解した。
会った時、「今度は私が見ている」と言った。
見ていなかった。
秋山淳は、私の前でもう一度消えた。
私は港のコンビニへ行った。防犯カメラは見せてもらえない。店員は昨日のことを覚えていない。駐車場の隅に、空き缶がひとつ落ちていた。前に秋山が拾ったものと同じ銘柄だった。
腹が立った。
秋山に。
自分に。
消えることを優しさだと思っている人間に。
そして、それを少し格好いいと思ってしまう世の中に。
消える人間は、残された人間に仕事を増やす。
探す仕事。
待つ仕事。
忘れない仕事。
諦める仕事。
それを勝手に置いていく。
私は律子に電話をした。
「弟さんが、また消えました」
律子はしばらく黙った。
「そうですか」
「驚かないんですね」
「少し、予想していました」
「なぜ止めなかったんですか」
「連絡先を知りません」
「知っていたら?」
「止めたと思います」
「本当に?」
「……分かりません」
律子の声は、前より少しだけ落ち着いていた。
「探偵さん」
「はい」
「もう、追わなくていいです」
「依頼は継続中です」
「終わりにします」
「それでいいんですか」
「よくはありません」
律子は言った。
「でも、今度は私が決めます」
私は海を見た。
風が強く、スマホの向こうの声が時々揺れた。
「淳は、また私のために消えたつもりでしょう」
「でしょうね」
「でも、それを受け取るかどうかは、私が決めます」
「はい」
「私は、もう、あの子の消え方に意味をあげません」
その言葉を聞いて、私は黙った。
意味をあげない。
たぶん、それは強い言葉だった。
誰かが勝手に置いていった痛みに、立派な名前をつけない。美談にしない。運命にしない。ただ、迷惑だったと言う。
律子はやっと、姉を少し降りたのかもしれない。
「報告書を、もう一通ください」
「何を書くんですか」
「弟が再び所在不明になったこと」
「それだけ?」
「それだけです」
「了解しました」
電話を切る前に、律子が言った。
「探偵さん」
「はい」
「あの子を見つけても、私には教えなくていいです」
「依頼人に報告しないわけには」
「その依頼は、もう終わりました」
「では、私は何をすれば」
「あなたが見つけたいなら、あなたの仕事として探してください」
私は少し笑った。
「ずるいですね」
「あなたほどでは」
電話は切れた。
私は車に戻り、秋山から届いた注釈の束を助手席に置いた。
彼は、自分が作った藪の中に、注釈を残していた。
読んだ人間が、いつか出口を見つけるように。
あるいは、出口を見つけた気になって、また迷うように。
私はその束を、もう一度最初から読んだ。
赤字の中に、一か所だけ、他と違う文字があった。
新聞記事の余白。
小さく、こう書かれていた。
姉さんは、もう藪を出たか。
私はその紙を折りたたみ、封筒に戻した。
答えは、本人に聞け。
そう思った。
でも、送らなかった。
第10話 藪を出る
律子から、一通の封筒が届いたのは、さらに一週間後だった。
中には、便箋が一枚。
弟宛ての手紙だった。
封はされていない。
私は読むべきか迷った。
迷ったが、読んだ。
依頼人が封をしていない手紙を探偵に送る時、それは「読まないでください」ではない。「読んだ上で、あなたがどうするか決めてください」だ。面倒くさい。だが、そういう面倒くささの中にしか、人間は入っていない。
手紙は短かった。
淳へ。
あなたを探すのを、やめます。
あなたがどこで生きるかは、あなたが決めてください。
私がどう生きるかは、私が決めます。
もう、ありがとうも、ごめんも、いりません。
元気で。
姉より。
私はその手紙を、何度か読み返した。
泣ける手紙ではない。
むしろ、そっけない。
でも、そのそっけなさがよかった。
人が誰かから離れる時、きれいな言葉はいらないことがある。長い説明もいらない。ただ、境界線を引く。ここから先は私の人生。ここから先はあなたの人生。そう言うだけで、十分な時がある。
封筒には、もう一枚メモが入っていた。
「見つけたら渡してください。見つからなければ、破棄してください」
また、面倒な依頼だった。
私は手紙を机の引き出しに入れた。
破棄はしなかった。
渡す予定もなかった。
しばらくの間、預かることにした。
それから二か月、秋山淳の行方は分からなかった。
私は積極的には追わなかった。だが、完全に忘れることもできなかった。海沿いの町へ行く別件があれば、工場地帯を通った。似た歩き方の男がいれば、少し見た。コンビニで同じ缶コーヒーを見るたびに、あの人はまた空き缶を拾っているだろうかと思った。
秋になって、松永から電話があった。
「来ました」
「誰が」
「あいつです」
秋山淳は、夜の工場に現れたらしい。
作業着ではなく、普通のシャツを着て。痩せていたが、元気そうだったと松永は言った。
「何を話しましたか」
「謝られました」
「それで」
「殴りませんでした」
「偉いですね」
「褒めてます?」
「少し」
松永は電話の向こうで笑った。
「あいつ、姉さんはって聞きました」
「何と答えましたか」
「自分で聞けって」
「正解です」
「ですよね」
「秋山さんは?」
「黙ってました」
「それから」
「ありがとうって言いかけて、やめました」
私は少しだけ目を閉じた。
「進歩ですね」
「たぶん」
「今どこに」
「知りません」
「本当に?」
「本当に」
松永は言った。
「でも、今度は逃げた感じじゃなかった」
「どういう感じでした」
「歩いていった感じです」
その違いは大きい。
逃げる人間は、後ろに意味を置いていく。
歩いていく人間は、前に用事がある。
私は電話を切ったあと、律子に連絡するか迷った。
迷って、やめた。
依頼は終わっている。
彼女は言った。見つけても教えなくていい、と。
私はその言葉を守ることにした。
探偵は、真実を見つける仕事だと思われている。
でも本当は、見つけた真実を、誰に渡して、誰に渡さないかを決める仕事でもある。
その判断は、いつも気持ちが悪い。
正しいと言い切れない。
間違っているとも言い切れない。
だから記録する。
自分が何を見て、何を渡さなかったのか。
あとで逃げないために。
私は最後の報告書を書いた。
宛名は、誰にもつけなかった。
秋山淳、所在確認には至らず。
ただし、生存可能性は高い。
依頼人は、弟の捜索継続を希望せず。
本件、終了。
それだけでは足りない気がして、別紙に一行だけ書いた。
藪は、隠すためだけにあるのではない。だが、守るために作った藪でも、人は迷う。
書いてから、消した。
報告書に詩はいらない。
数日後、律子から事務所に電話があった。
「先生」
彼女はなぜか、私を先生と呼んだ。
「探偵です」
「分かっています」
「どうしました」
「車を処分しました」
私は少し黙った。
「そうですか」
「部屋も片づけました」
「はい」
「作業着は、一着だけ残しました」
「なぜ」
「雑巾にします」
私は笑ってしまった。
律子も少し笑った。
「いいと思います」
「はい」
「弟さんに伝えたいことは」
「ありません」
律子は言った。
「もし会ったら、自分で言います」
「分かりました」
「探偵さん」
「はい」
「ありがとうございました」
私は一瞬だけ迷った。
ありがとうは、やはり少し怖い。
でも、今回は鍵ではなかった。
終わりの印でも、逃げるための言葉でもなかった。
律子が自分の口で選んだ、普通の礼だった。
「こちらこそ」
私は言った。
電話を切ったあと、引き出しを開けた。
弟宛ての手紙は、まだそこにあった。
私はそれを新しい封筒に入れ直し、宛名を書かずに保管箱へ移した。
いつか渡す日が来るかもしれない。
来ないかもしれない。
それでいい。
真実は、いつも藪の中にあるわけではない。
藪を出たあとにも、人はまだ迷う。
出口に立ったからといって、急に自由になれるわけではない。
でも、外の光があることを知っているだけで、歩ける日がある。
私は次の依頼票を開いた。
名前。
住所。
相談内容。
紙の上に、人の困りごとはまた並ぶ。
私はペンを取った。
見つかってほしいもの。
見つかってほしくないもの。
そのどちらでもないもの。
探偵の仕事は、今日もだいたいそこから始まる。
(了)