たそかれの村

ダムに沈んだ村。五十年前の夏祭りの約束を、いちばんいい帽子とともに抱え続けた老人が、探偵事務所を訪ねる。北関東を舞台にした連作短編の第一話。

第一話「結城の町と、いちばんいい帽子」

その村は、地図に、もう載っていない。

結城ではない。結城から車を走らせ、山の影が濃くなった先に、かつて二十軒ほどの小さな集落があった。

五十年前、ダムの水が入り、家も、神社も、石段も、水の底に沈んだからだ。だから、その村を探すという仕事は、はじめから、すこし、間違っていた。

結城の町は、まだ残暑が厳しかった。事務所の窓を少しだけ開けておくと、遠くから「トン、トン、コン、コン」という、かすかな機織りの音が風に乗って聞こえてくる。この町特有の、結城紬を織る音だ。一定のリズムで繰り返されるその音は、まるで町そのものが静かに、そして長く呼吸をしているように聞こえる。

その規則正しい音に混じって、依頼人の男性が帽子をなでる、かすかな布の摩擦音がした。

古い家屋の匂いと、少し埃っぽいような乾いた風が、網戸を揺らしている。

依頼人は、七十を過ぎた男性だった。事務所のパイプ椅子に、背筋を伸ばして座り、膝の上で、帽子を、両手で持っていた。

古い帽子だった。ただ、古いだけではなかった。つばのところだけ、妙にきれいだった。使い古されたものを、捨てずに、手入れしながら持っている人の帽子だった。長年、指先で触れ続けたせいで、そこだけ布の起毛が寝て、鈍い艶が出ている。

人は、大切にしているものに触れるとき、必ず同じ場所を触る。その積み重ねが、物に時間という色をつける。

彼は、私がコーヒーを出す間も、ずっとその帽子を手放さなかった。テーブルに置くことすら、ためらっているようだった。湯気が立つ紙コップの横で、彼の手は、ただ静かにつばの縁をなぞっていた。指先には、長年の工場仕事で染み付いた油の跡が、洗っても落ちない黒い線になって残っていた。その無骨な指が、帽子のつばだけを、ひどく優しくなぞるのだ。

「探してほしい人が、いるんです」

彼の声は、機織りの音よりもずっと静かだった。人探しの依頼で、いちばん多いのは、お金を貸した相手を探すものだ。次が、勝手に停められた車の持ち主。あるいは、突然いなくなった家族。そういう、切羽詰まった、乾いた依頼に、私は慣れている。

そういう人たちは、たいてい早口で喋る。情報を少しでも多く出そうとする。

でも、この人は、ちがった。言葉と言葉の間に、長い沈黙があった。その沈黙は、彼が五十年間、誰にも言えずに抱え込んできた時間の重さだった。

沈黙の間、彼は窓の外を見た。結城の空は、まだ夏の終わりの高い青色をしていた。

「五十年前に、別れた人です」

初恋の人だ、と、彼は言った。

「笑って、くれて、かまいません。この歳で、初恋も、ないものだと」

私は、笑わなかった。窓の外から、今度は下校中の小学生の声が聞こえた。夕方のチャイムが鳴り始める前の、まだ少し明るい時間。ランドセルにつけた防犯ブザーが、走るたびに小さく鳴っている。

人を探す理由に、年齢は関係ない。むしろ、歳を取るほど、探したいものは、ひとつに、絞られていく。

財布でもない。印鑑でもない。通帳でもない。最後に残るのは、たいてい、人だ。それも、いちばん不確かな記憶の中にしかいない人。

「お名前は、佐和子さん、と言います」

最後に会ったのは、あの村が沈む、前の年。村の、夏祭りの夜。二人は、神社の石段で、約束をした。

「来年の、祭りで。また、ここで、会おう」と。

彼は、その祭りの日のことを話しながら、膝の上の帽子を、そっとなでた。シャッ、シャッ、という微かな音が、事務所の静寂に溶けていく。

「祭りの日は、いつも、いちばん、いい帽子を、かぶって行くんです。あの子に、会うから。……この歳になっても、その癖だけは、抜けなくてね」

少し照れた顔だった。七十を過ぎた男の人が、自分の帽子をなでながら、十代の少年みたいな顔をした。目尻の深い皺が寄り、少しだけ口元が緩む。その一瞬だけ、五十年の時間が巻き戻ったように見えた。

私は、その顔を、見なかったことにした。探偵の仕事には、見たほうがいいものと、見なかったふりをしたほうがいいものがある。

来年の祭りは、来なかった。その冬に、村は、水の底に沈んだ。人も、家も、神社も、石段も、ぜんぶ。

私は、彼が持ってきた、古い写真を何枚か見せてもらった。白黒の写真のなかに、まだ沈む前の村があった。木造の平屋が並ぶ集落。細い一本道。奥に見える、鎮守の森。写真の端が、少し黄色く変色していた。五十年の時間が、紙の端から少しずつ食べていったような色だった。

「この神社ですね」私が指さすと、彼はうなずいた。

「ええ。この石段の下で、待ち合わせをしたんです。祭りの夜は、村じゅうの人が集まるから、提灯の明かりで、人の顔が赤く見えるんです。佐和子さんは、その明かりの中で、いちばんきれいに見えました」

私は、その提灯の明かりを、頭の中で想像してみた。今のLEDのような冷たい光ではない。ろうそくの、風で揺れる、不確かな光だ。その光の中で交わした約束を、この人は五十年間、ずっと抱えて生きてきた。提灯の赤い光と、夏の夜の湿った空気。浴衣の擦れる音と、遠くで鳴る太鼓の音。彼は、それらをすべて、この古い帽子の中に閉じ込めているようだった。

「役場には、行かれましたか」私が訊くと、彼は少し目を伏せた。

「行きました。でも、個人情報だからと、教えてもらえませんでした。ダムの補償で、みんなバラバラになってしまったし……私には、もう、どう探していいか」

簡単な仕事に、なるはずだった。探偵なら、役場の記録をたどる方法はいくつかある。沈んだ村の住民記録。転居先。佐和子さんの一家がどこへ行ったか、たどれるはずだった。

そう思っていた。

彼が帰ったあと、私は事務所の窓を閉めた。機織りの音は、まだ遠くで鳴っていた。トン、トン、コン、コン。

五十年前の約束。私は、その重さを、まだ分かっていなかった。

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