たそかれの村
ダムに沈んだ村。五十年前の夏祭りの約束を、いちばんいい帽子とともに抱え続けた老人が、探偵事務所を訪ねる。北関東を舞台にした連作短編の第一話。
第一話「結城の町と、いちばんいい帽子」
その村は、地図に、もう載っていない。
結城ではない。
結城から車を走らせ、山の影が濃くなった先に、かつて二十軒ほどの小さな集落があった。
五十年前、ダムの水が入り、家も、神社も、石段も、水の底に沈んだからだ。
だから、その村を探すという仕事は、はじめから、すこし、間違っていた。
結城の町は、まだ残暑が厳しかった。
事務所の窓を少しだけ開けておくと、遠くから「トン、トン、コン、コン」という、かすかな機織りの音が風に乗って聞こえてくる。この町特有の、結城紬を織る音だ。一定のリズムで繰り返されるその音は、まるで町そのものが静かに、そして長く呼吸をしているように聞こえる。
その規則正しい音に混じって、依頼人の男性が帽子をなでる、かすかな布の摩擦音がした。
古い家屋の匂いと、少し埃っぽいような乾いた風が、網戸を揺らしている。
依頼人は、七十を過ぎた男性だった。
事務所のパイプ椅子に、背筋を伸ばして座り、膝の上で、帽子を、両手で持っていた。
古い帽子だった。
ただ、古いだけではなかった。つばのところだけ、妙にきれいだった。使い古されたものを、捨てずに、手入れしながら持っている人の帽子だった。長年、指先で触れ続けたせいで、そこだけ布の起毛が寝て、鈍い艶が出ている。
人は、大切にしているものに触れるとき、必ず同じ場所を触る。その積み重ねが、物に時間という色をつける。
彼は、私がコーヒーを出す間も、ずっとその帽子を手放さなかった。
テーブルに置くことすら、ためらっているようだった。
湯気が立つ紙コップの横で、彼の手は、ただ静かにつばの縁をなぞっていた。
指先には、長年の工場仕事で染み付いた油の跡が、洗っても落ちない黒い線になって残っていた。その無骨な指が、帽子のつばだけを、ひどく優しくなぞるのだ。
「探してほしい人が、いるんです」
彼の声は、機織りの音よりもずっと静かだった。
人探しの依頼で、いちばん多いのは、お金を貸した相手を探すものだ。次が、勝手に停められた車の持ち主。あるいは、突然いなくなった家族。そういう、切羽詰まった、乾いた依頼に、私は慣れている。
そういう人たちは、たいてい早口で喋る。情報を少しでも多く出そうとする。
でも、この人は、ちがった。
言葉と言葉の間に、長い沈黙があった。その沈黙は、彼が五十年間、誰にも言えずに抱え込んできた時間の重さだった。
沈黙の間、彼は窓の外を見た。結城の空は、まだ夏の終わりの高い青色をしていた。
「五十年前に、別れた人です」
初恋の人だ、と、彼は言った。
「笑って、くれて、かまいません。この歳で、初恋も、ないものだと」
私は、笑わなかった。
窓の外から、今度は下校中の小学生の声が聞こえた。夕方のチャイムが鳴り始める前の、まだ少し明るい時間。ランドセルにつけた防犯ブザーが、走るたびに小さく鳴っている。
人を探す理由に、年齢は関係ない。むしろ、歳を取るほど、探したいものは、ひとつに、絞られていく。
財布でもない。印鑑でもない。通帳でもない。
最後に残るのは、たいてい、人だ。
それも、いちばん不確かな記憶の中にしかいない人。
「お名前は、佐和子さん、と言います」
最後に会ったのは、あの村が沈む、前の年。村の、夏祭りの夜。
二人は、神社の石段で、約束をした。
「来年の、祭りで。また、ここで、会おう」と。
彼は、その祭りの日のことを話しながら、膝の上の帽子を、そっとなでた。
シャッ、シャッ、という微かな音が、事務所の静寂に溶けていく。
「祭りの日は、いつも、いちばん、いい帽子を、かぶって行くんです。あの子に、会うから。……この歳になっても、その癖だけは、抜けなくてね」
少し照れた顔だった。
七十を過ぎた男の人が、自分の帽子をなでながら、十代の少年みたいな顔をした。
目尻の深い皺が寄り、少しだけ口元が緩む。その一瞬だけ、五十年の時間が巻き戻ったように見えた。
私は、その顔を、見なかったことにした。
探偵の仕事には、見たほうがいいものと、見なかったふりをしたほうがいいものがある。
来年の祭りは、来なかった。
その冬に、村は、水の底に沈んだ。人も、家も、神社も、石段も、ぜんぶ。
私は、彼が持ってきた、古い写真を何枚か見せてもらった。
白黒の写真のなかに、まだ沈む前の村があった。
木造の平屋が並ぶ集落。細い一本道。奥に見える、鎮守の森。
写真の端が、少し黄色く変色していた。五十年の時間が、紙の端から少しずつ食べていったような色だった。
「この神社ですね」
私が指さすと、彼はうなずいた。
「ええ。この石段の下で、待ち合わせをしたんです。祭りの夜は、村じゅうの人が集まるから、提灯の明かりで、人の顔が赤く見えるんです。佐和子さんは、その明かりの中で、いちばんきれいに見えました」
私は、その提灯の明かりを、頭の中で想像してみた。
今のLEDのような冷たい光ではない。ろうそくの、風で揺れる、不確かな光だ。
その光の中で交わした約束を、この人は五十年間、ずっと抱えて生きてきた。
提灯の赤い光と、夏の夜の湿った空気。浴衣の擦れる音と、遠くで鳴る太鼓の音。
彼は、それらをすべて、この古い帽子の中に閉じ込めているようだった。
「役場には、行かれましたか」
私が訊くと、彼は少し目を伏せた。
「行きました。でも、個人情報だからと、教えてもらえませんでした。ダムの補償で、みんなバラバラになってしまったし……私には、もう、どう探していいか」
簡単な仕事に、なるはずだった。
探偵なら、役場の記録をたどる方法はいくつかある。沈んだ村の住民記録。転居先。佐和子さんの一家がどこへ行ったか、たどれるはずだった。
そう思っていた。
彼が帰ったあと、私は事務所の窓を閉めた。
機織りの音は、まだ遠くで鳴っていた。トン、トン、コン、コン。
五十年前の約束。
私は、その重さを、まだ分かっていなかった。
第二話「沈む前の村」
翌日、私は車で、ダムを管轄する町の役場へ向かった。
国道を外れると、景色はすぐに緑色に変わった。窓を開けると、刈り入れ前の稲の匂いと、少し湿った土の匂いが車の中に入ってきた。
タイヤがアスファルトを擦る音が、山に近づくにつれて反響して大きくなる。
運転しながら、私は依頼人から聞いた「沈む前の村」の話を思い出していた。
五十年前、その村は山あいの小さな盆地にあった。
戸数は二十軒ほど。村の中心には細い川が流れ、その両岸にへばりつくように家々が並んでいた。
春には山桜が咲き、夏には川で子どもたちが遊び、秋には神社の祭りで村中が賑わい、冬には雪に閉ざされる。日本のどこにでもあった、そして今はもうどこにもない、普通の村だった。
川のせせらぎは、村のどこにいても聞こえたという。朝、顔を洗うときも、夜、布団に入るときも、その音は常に村の背景にあった。
佐和子さんは、その村で一番器量がいいと評判の娘だったらしい。
実家は小さな雑貨屋を営んでおり、村の衆はみな、彼女が店先に立つ時間を知っていた。
依頼人の彼も、用もないのにノートや鉛筆を買いに行き、彼女の顔を見るだけで一日中胸が高鳴ったという。
店先には、いつもラムネの瓶が冷やしてあり、夏になるとそのガラスの音が涼しげに響いていた。
二人が言葉を交わすようになったのは、彼が高校を卒業し、町の工場で働き始めた頃だった。
休みの日に村へ帰るバスの中で、偶然隣の席になった。
揺れるバスの中で、窓の外を流れる景色を見ながら、ぽつりぽつりと話をした。
彼女の横顔に、夕方の光が差していたこと。彼女が、少しだけはにかむように笑う癖があったこと。
彼は、五十年前のそのバスの匂いまで、昨日のことのように覚えていた。古いシートの埃っぽい匂いと、ディーゼルエンジンの排気ガス、そして彼女の髪からした石鹸の匂い。
バスが山道を曲がるたびに、二人の肩がほんの少しだけ触れそうになり、そのたびに彼は息を止めていた。
ダム建設の話が村に持ち上がったのは、二人がようやく、誰にも内緒で神社の裏で会うようになった直後だった。
最初は、ただの噂だった。
「国が測量に来るらしい」「下流の町のために、水が必要なんだと」。
大人たちは夜の寄り合いで声を荒げ、子どもたちは何が起きているのか分からずに不安な顔をした。
村が沈む。
その言葉は、村の空気を少しずつ、でも確実に変えていった。
川の音は同じなのに、聞こえ方が変わった。桜の花も、来年はもう見られないかもしれないと思うと、色が薄く見えた。
補償金をもらって早く町へ出ようとする家と、先祖代々の土地を守ろうと最後まで抵抗する家。
小さな村は、二つに割れた。
佐和子さんの家は、前者だった。父親が早くに見切りをつけ、町で新しい商売を始める準備を進めていた。
一方、彼の家は後者だった。頑固な父親は「金で土地は売らん」と怒鳴り、村の反対運動の先頭に立っていた。
二人は、会えなくなった。
村が割れているときに、推進派の娘と反対派の息子が会うことは、許されなかった。
それでも、祭りの夜だけは違った。
夏祭り。
その日だけは、推進派も反対派も関係なく、村の鎮守の神様のために集まった。
太鼓の音が響き、焼きそばや綿飴の匂いが漂う中、彼らは、その夜の喧騒に紛れて、神社の石段でこっそりと待ち合わせをした。
「来年の、祭りで。また、ここで、会おう」
それが、二人が交わした最後の言葉だった。
提灯の赤い光の下で、彼女は少しだけ泣きそうな顔をしてうなずいた。
その冬、反対運動は力尽き、村はダムの底に沈むことが決まった。
私は、役場の駐車場に車を停めた。
古い鉄筋コンクリートの建物。入り口のガラス戸には、色あせた交通安全のポスターが貼ってあった。
車のエンジンを切ると、山からの風が、駐車場のアスファルトを撫でる音が聞こえた。
第三話「レモン牛乳と転出届」
窓口で、事情を話し、古い住民記録を探してもらうように頼んだ。
窓口の女性は、少し困ったような顔をして、奥の席の年配の職員とひそひそと話をした。
役場という場所は、こちらが「残っているはずです」と言うと、たいてい一度、「ないかもしれません」と言う。
ないかもしれません、は、ない、ではない。
探偵は、そういう日本語の隙間で、椅子に座って待つ仕事でもある。
「古い資料は、別の倉庫にあるもので……少し、お時間がかかりますが」
窓口に戻ってきた女性が、申し訳なさそうに言った。
別の倉庫。
役場でこの言葉が出たときは、すぐには出てこない、という意味だ。出せない、ではない。出したくない、に近い。
私は、出したくなるまで待つことにした。
「構いません。待ちます」
役場のロビーのパイプ椅子に座った。
パイプ椅子の冷たい感触が、背中から伝わってくる。古びたビニールレザーの座面は、少しだけベタついていた。
壁には、地元の小学生が描いた水道週間のポスターが貼ってあった。水をたいせつに、と、太い青い字で書いてあった。少しめくれた端が、エアコンの風でパタパタと鳴っている。
その横には、町内会の掲示板があり、誰かの飼い犬を探すチラシが画鋲で留められていた。
時間は、ゆっくりと流れていた。
私は、この役場のロビーで、ただ待つという行為を味わっていた。
探偵の仕事の半分は、待つことだ。
でも、今回は少し違った。五十年前の記録を待つ時間は、まるで自分自身が五十年前の空気に触れようとしているような、奇妙な感覚があった。
蛍光灯のジーッという音が、静かなロビーに響いている。
その下の自動販売機で、私は黄色い紙パックのレモン牛乳を買った。
硬貨を入れる音が、静かなロビーにやけに大きく響いた。チャリン、チャリン、ガチャン。
レモン牛乳、と言っても、レモンの味はしない。
この県には、そういうものがある。名前と中身が、少しだけずれているのに、誰もそれを責めない。むしろ、そのずれごと、土地の味になっている。
甘ったるい、少しだけ粉っぽいような味。子どもの頃から変わらない、安心する甘さだ。
私はストローを刺して、甘い牛乳を飲みながら、水の底に沈んだ村の資料を待った。
ストローを吸うたびに、紙パックが小さくへこむ音がする。
ロビーの隅にあるテレビでは、昼のニュースが流れていた。どこかの国の選挙の話。
皮肉というほどではない。
現実は、だいたいこのくらいの雑な顔をしている。
四十分ほどして、窓口の女性が、茶色い封筒を持って戻ってきた。
記録は、結局、見つかった。
佐和子さん一家の、転出届。
「あの、これなんですが……」
女性は、少し戸惑ったように、封筒から一枚のコピーを出した。
ただ――その日付を見て、私は、手が止まった。
佐和子さんの一家が、村を出た日付は。
彼が「最後に会った」という、あの祭りの夜より、三年も、前だった。
私は、自分の目を疑った。
依頼人の老人は、たしかに、祭りの夜に、佐和子さんと会っていると言った。石段の場所も、交わした言葉も、はっきりと覚えている、と。
でも、記録では。
その三年も前に、佐和子さんは、もう、村にいない。
会えるはずのない夜に、二人は、会っていた。
「……間違いないですか」
私が訊くと、女性はうなずいた。
「はい。ダムの建設が決まって、一番早く村を出られたご家族のひとつです。転出先は、県内の……」
私は、転出先の住所をメモに書き写した。
ボールペンの先が紙を滑る音が、やけに大きく聞こえた。
頭の中で、依頼人の言葉と、目の前の記録が、まったく噛み合わずに宙に浮いていた。
彼は、嘘をついているようには見えなかった。
あの、帽子をなでる手つき。照れたような顔。
あれが嘘だとしたら、私は探偵を辞めたほうがいい。
では、記録が間違っているのか。
いや、役場の転出届が、三年もずれることはあり得ない。
私は、役場で、もう一つ、頼みごとをした。
村が沈む前の、航空写真を見せてほしい、と。
第四話「一本道の人影」
窓口の女性は、少し迷ったあと、別の分厚いファイルを持ってきてくれた。
ダム建設の記録写真のファイルだった。
ファイルを開くと、古い紙の匂いがした。何十年も光に当てられていない、閉じ込められた時間の匂い。
その中に、村が沈む前の、最後の航空写真があった。
上空から撮った、小さな村。家が二十軒ほど。神社の屋根。畑。一本の、細い道。
この村が、このあと、そっくり水の底へ沈むのだと思うと、写真の白黒が、やけに静かに見えた。
川の流れは白く光り、家々の影は黒く落ちている。
私は、ルーペを借りて、その写真をじっくりと見た。
神社の石段。彼が待ち合わせをした場所。
そして、村を貫く一本の道。
私は、その一本道に、目を止めた。
道の、まんなかに。
ぽつんと、人影が、ひとつ、写っていた。
撮影日を、確かめた。
写真の右下に、小さな白い文字で日付が印字されている。
村が沈んだ、ずっとあと。
ダムの底に沈む直前、もう全住民が退去したあとの、最終確認の撮影だった。
もう、誰も住んでいないはずの、水の底の村の、一本道に。
誰かが、立っていた。
「……これ」
私が指さすと、窓口の女性もルーペをのぞき込んだ。
「あ、本当ですね。誰でしょう。測量の人かしら……でも、この時期にはもう、立ち入り禁止になっていたはずですが」
私は、撮影日を三度、見直した。三度とも、同じ日付だった。
写真の中のその人は、顔も性別もわからない。ただ、村の中心に立って、何かを待っているように見えた。
あなたなら、この人影を、誰だと、思いますか。
私は、役場を出て、車に戻った。
夏の終わりの強い日差しが、ダッシュボードを熱くしていた。
エアコンをつけても、すぐには涼しくならない。
シートに座り、私はしばらくエンジンをかけなかった。
ただ、じっと前を見ていた。
窓の外では、役場の職員が自転車に乗って通り過ぎていった。チェーンのカラカラという音が遠ざかっていく。
静かな時間だった。
助手席に置いた、転出届のコピーと、航空写真のコピー。
佐和子さんは、三年前に村を出ていた。
彼は、祭りの夜に彼女に会った。
そして、誰もいないはずの村に、人影があった。
私は、エンジンをかけた。
まずは、沈んだ村の人たちに、話を聞くしかない。
記録が嘘をつかないなら、記憶のほうを確かめるしかない。
私は、転出届の住所ではなく、沈んだ村から比較的近くに引っ越した人たちの名簿を頼りに、車を走らせた。
窓の外の景色が、少しずつ、夕方の色に変わり始めていた。
山影が長くなり、田んぼの水面がオレンジ色に光っている。
第五話「五十回の夕暮れ」
車を走らせながら、私は、依頼人のあの手つきを思い出していた。
膝の上で、古いつばをそっとなでる、あの仕草。
彼は、五十年間、毎年あの帽子をかぶって湖へ向かったのだろう。
祭りの日が近づくと、クローゼットの奥から帽子を出し、ブラシをかけ、形を整える。
結城の町で、機械油の匂いにまみれて働く日常の中で、その時間だけが、彼を五十年前の少年に戻した。
工場の機械音が鳴り響く中でも、彼の頭の中には、あの祭りの夜の太鼓の音が鳴っていたのかもしれない。
毎年、帽子を磨く時間は、彼にとってどんなものだったのだろうか。
最初の十年は、きっと胸を躍らせていたはずだ。
ブラシをかける手も軽く、鏡の前で何度も角度を直しただろう。
「今年も来た」という期待。
車の窓を全開にして、夏の終わりの風を顔に受けながら。
湖のほとりに着けば、彼女が立っているかもしれない。そう本気で信じていた時間。
夕日が湖面を赤く染めるのを見て、彼は胸を高鳴らせていた。
次の十年は、どうだったか。
ブラシをかける手は少し重くなり、鏡を見る時間も減ったかもしれない。
「今年で最後にしよう」
もう十回も裏切られた。彼女は来ない。自分には結城での生活がある。
県道沿いのドライブインで車を停め、缶コーヒーを握りしめながら、何度も引き返そうとしたはずだ。
缶コーヒーの温かさが、手のひらから少しずつ冷めていくのを感じながら。
それでも、夕暮れが近づくと、彼はエンジンをかけてしまった。
「今年で最後だ」と自分に言い訳をしながら。
そして、その次の十年。
彼はもう、「今年で最後」と思うことすらやめていた。
「今年も来てしまった」
それはもう、期待でも諦めでもなく、彼という人間の骨組みの一部になっていた。
祭りの日が近づくと、無意識に帽子を箱から出し、ブラシをかける。
湖のほとりに立っても、彼女の姿を探すより先に、水面をじっと見つめる時間の方が長くなっていたかもしれない。
夕日が沈むのを見て、「ああ、今年も終わった」と静かに息を吐く。
それは、彼にとって一年の区切りだった。
その次の十年。
彼は、湖のほとりのコンクリートの段差に、少しだけ足が引っかかるようになった。
夕方の冷たい風が、昔よりも関節に染みるようになる。
「もう来られないかもしれない」
彼は、湖面を見ながら、初めて自分の「終わり」を意識したのではないか。
彼女が来ないことよりも、自分がここへ来られなくなる日の恐怖。
約束を守れなくなるのは、彼女ではなく、自分の方かもしれないという焦り。
最後の十年。
結城の機織りの音も、町から少しずつ減っていった。
彼は、杖をつくようになった。
「今年だけは来よう」
彼は毎年、そう祈るようにして車に乗ったはずだ。
もう、彼女に会えるとは思っていない。
ただ、五十年前の自分と彼女が交わした約束を、この世から消さないために。
自分がここへ来なくなれば、あの祭りの夜の記憶は、完全に水の底へ沈んでしまう。
だから、今年だけは。
同じ湖。同じ夕暮れ。同じ帽子。
でも、立っている人間だけが、少しずつ削られ、年を取っていく。
五十回繰り返したのではない。
五十回、少しずつ変わりながら、それでも同じ場所に立ち続けたのだ。
私は、車のハンドルを握る手に、少しだけ力が入るのを感じた。
探偵として、私はこれまで多くの「過去」を探してきた。
でも、これほど重く、静かな「過去」に触れたのは初めてだった。
私は、彼が五十年間通ったのと同じ道を、いま、走っている。
彼の「反復」の時間の、ほんの端っこを、なぞるように。
帽子は、机の上に置いてあった。
夜の十時を過ぎていた。
窓の外は、もう完全に暗い。
結城の町の夜は、静かだ。機織りの音は、日が落ちると止まる。
その代わりに、遠くの国道を走るトラックの音が、低く、断続的に聞こえてくる。
彼は、椅子に座ったまま、机の上の帽子を見ていた。
手は、膝の上に置いていた。
触れていない。
ただ、見ていた。
明日は、あの日だ。
毎年、この日が来るたびに、彼は同じことをする。
帽子を出す。ブラシをかける。車に乗る。湖へ向かう。
それだけだ。
それだけのことを、五十年間、繰り返してきた。
今年で最後にしよう、と、彼は思った。
今年も、そう思った。
去年も、そう思った。
一昨年も、その前の年も、そう思った。
でも、帽子をしまえない。
クローゼットに戻せない。
明日の朝、また机の上にあるだろうと、彼は分かっていた。
指が、ゆっくりと動いた。
膝の上から離れ、机の端に触れ、そのまま帽子のつばへ伸びた。
自分でも気づかないうちに、指先がつばの縁をなぞっていた。
シャッ、という微かな音が、夜の部屋に溶けた。
布は、もう何十年も触れ続けた場所だけが、鈍い艶を持っていた。
指先が覚えている。
この感触だけは、五十年前から変わっていない。
彼の手は、老いていた。
節が太くなり、皮膚が薄くなり、血管が浮いている。
工場で何十年も使い続けた手だ。
油が染み込んで、洗っても落ちない黒い線が、指の折れ目に残っている。
その手が、帽子のつばだけを、ひどく優しくなぞる。
行くと決めたわけではない。
行かないと決めることもできない。
ただ、指が動いている。
指が、帽子を離せない。
窓の外で、トラックが一台、通り過ぎた。
エンジンの音が遠ざかり、また静かになる。
夜が、深くなっていく。
彼は、帽子を机の上に置いたまま、立ち上がった。
電気を消した。
暗い部屋の中で、帽子の輪郭だけが、窓から差し込む外灯の光に浮かんでいた。
彼は、布団に入った。
目を閉じた。
でも、眠れなかった。
機織りの音は、もう聞こえない。
でも、彼の耳の奥には、五十年前の太鼓の音が、まだ残っていた。
第六話「対岸の五十回」
私が彼の五十回の夕暮れを想像していた頃、佐和子さんもまた、別の場所で同じように五十回の夕暮れを重ねていた。
それは、後になって彼女自身から聞いた話だ。
彼女の一家が村を出たのは、ダム建設の反対運動がまだ村を二分していた頃だった。
父親は「この村にはもう未来がない」と言い、早々に補償金を受け取って隣町へ引っ越すことを決めた。
引っ越しのトラックの助手席で、彼女は何度も後ろを振り返ったという。
彼に、さよならも言えなかった。
反対派の急先鋒だった彼の家の前を通り過ぎるとき、彼女は息を潜めて、窓の奥に彼の姿を探した。
でも、彼は工場の仕事でいなかった。
遠ざかっていく村の景色。見慣れた一本道。神社の屋根。
トラックの振動が、彼女の体を容赦なく新しい町へと運んでいった。
荷台に積まれた家財道具がぶつかるガタガタという音が、彼女の心にずっと響いていた。
その日から、彼女の中で時間は二つに分かれた。
新しい町で進んでいく時間と、村に置いてきた時間。
三年後。村が本当に沈むと決まった年の夏。
彼女は、親にも内緒で、一人でバスを乗り継いで村へ向かった。
もう一度だけ、彼に会うために。
彼が、いつもかぶっていたあの帽子を見つけるために。
祭りの夜の神社の石段で、二人は会えた。
「来年の祭りで。また、ここで、会おう」
その約束だけを胸に抱いて、彼女はまた、自分の町へ帰っていった。
帰りのバスの窓ガラスに額を押し付けながら、彼女は約束の言葉を何度も頭の中で反芻していた。
そして、彼女の「五十回の夕暮れ」が始まった。
彼女もまた、最初の十年は、胸を躍らせていた。
彼がきっと来てくれると信じて。
夕方のバスに揺られながら、窓の外の景色が少しずつ山の色に変わっていくのを見て、心臓が早鐘を打った。
でも、彼が現れることはなかった。
次の十年、「今年で最後にしよう」と思ったのは、彼女も同じだった。
彼女には彼女の生活があった。結婚の話もあったかもしれない。親の介護もあったかもしれない。
それでも、祭りの日が近づくと、彼女は胸の奥がざわつくのを止められなかった。
夕暮れの空の色を見るたびに、あの神社の石段を思い出した。
スーパーで買い物をしているときでも、夕焼けがガラスに反射すると、足が止まった。
その次の十年、「今年も来てしまった」とため息をついたのも、同じだ。
彼女は、湖の対岸から、沈んだ神社のあたりをじっと見つめていた。
水位が下がった年には、古い石垣が少しだけ顔を出すことがあった。
彼女は、その石垣を見つめながら、もう来ない人の帽子を探し続けていた。
風が湖面を撫でる音が、昔の川のせせらぎのように聞こえることがあった。
同じ湖。同じ夕暮れ。
二人は、会えないまま、同じ時間を生きていた。
彼が帽子を磨いていたとき、彼女は風鈴の紐を結び直していた。
彼がドライブインで缶コーヒーを買っていたとき、彼女はバスの窓から同じ夕焼けを見ていた。
彼が「もう来られないかもしれない」と足の痛みをこらえていたとき、彼女もまた、バス停からの坂道で息を切らしていた。
探偵である私の仕事は、この二つの並行する時間を、一つの線に繋ぐことだ。
私は、その責任の重さに、少しだけめまいを覚えた。
五十年の重さは、一人分でも重いのに、二人分になれば、それはもう一つの歴史だった。
風鈴が、鳴った。
佐和子さんは、台所で夕飯の支度をしていた。
夕方の五時を少し過ぎた頃。
窓から差し込む光が、オレンジ色に変わり始める時間。
その光の色を見た瞬間、彼女の手が止まった。
包丁を持ったまま、まな板の前に立ち尽くした。
また、この時間が来た。
台所の窓から、庭の向こうが見える。
庭の向こうに、小さな道がある。
道の向こうに、空がある。
その空が、今、オレンジ色に燃えていた。
彼女は、包丁を置いた。
そのまま、窓の外を見た。
見ていた。
何を見ているのか、自分でも分からなかった。
玄関の風鈴が、また鳴った。
ちりん、という音が、台所まで届いてくる。
もう待っていない、と、彼女は思っていた。
五十年間、そう言い聞かせてきた。
あの人は来ない。来るはずがない。
自分はもう、待っていない。
でも、体が覚えていた。
夕方のこの時間になると、体が勝手に、あの方角を向く。
湖のある方角を。
沈んだ村のある方角を。
石段のあった場所の方角を。
待っているのではない。
ただ、体が、その方向を向いてしまう。
彼女は、台所を出た。
廊下を歩いて、玄関へ向かった。
扉を開けると、秋の夕方の冷たい空気が流れ込んできた。
風鈴が、また鳴った。
ちりん。
彼女は、玄関先に立って、空を見た。
オレンジ色の空が、少しずつ紫に変わっていく。
その境界線が、どこかの湖の水面に映っているはずだった。
彼女の手が、風鈴の紐に触れた。
ビニール紐の、少しだけ硬い感触。
何年か前に、元の紐が切れて、自分で結び直した。
荷造り用の透明なビニール紐。
みっともない直し方だと分かっていた。
でも、替えなかった。
この風鈴を、外したくなかった。
なぜ外したくないのか、彼女は自分に問わなかった。
問わなくても、分かっていたからだ。
空が、完全に紫になった。
夕方が終わり、夜が始まる。
彼女は、玄関の扉を閉めた。
台所に戻り、包丁を持ち直した。
風鈴は、もう鳴らなかった。
風が、止まっていた。
第七話「記憶の輪郭」
佐和子さん、という名前を出すと、年寄りたちは、たいてい、すこし、遠い目をした。
「佐和子ちゃんね。……あの子は、きれいな子だったよ」
最初に会った老婦人は、湯呑みを両手で包みながら、そう言った。
縁側には、秋の初めの風が吹き込んでいた。庭の隅で、干した柿がかすかに甘い匂いを立てている。
畳の部屋には、古い仏壇があり、線香の匂いが微かに漂っていた。
私は、出されたお茶をすすりながら、彼女の言葉を待った。
急須から注がれたお茶は、少しぬるかった。
老婦人の時間は、私よりもずっとゆっくりと流れているようだった。
庭の木の葉が擦れるサワサワという音が、部屋の中まで聞こえてくる。
佐和子さんは、村の神社で、祭りの手伝いをしていたらしい。
夏祭りのとき、神さまに供える御神酒を運び、灯籠に火を入れる役目。村でいちばん器量のいい娘が、やる役だった。
赤い鼻緒の下駄を履いて、石段を上り下りする彼女の姿を、村の大人たちは目を細めて見ていたという。
「でもねえ」
老婦人は、湯呑みの中を見た。
お茶は、もうほとんど残っていなかった。
茶柱が、底の方で横たわっている。
「あの子の一家はね、村が沈むより、ずっと前に、出ていったんだよ。お父さんの仕事の都合でね。……たしか、三年は、前だったかねえ」
記録の通りだった。
佐和子さんは、あの祭りの三年も前に、村を出ている。
なのに、依頼人の老人は、あの祭りの夜、たしかに彼女と会っている。
私は、その食いちがいを、どう埋めればいいのか、わからなかった。
帰りぎわ、老婦人が、ぽつりと、言った。
「……でもね。ひとつだけ、変な話が、あるんだよ」
「変な話?」
「あの子が、村を出たあとの、最後の祭り。村が沈む、前の年のね。その夜、佐和子ちゃんを見た、っていう人が、いるんだよ。神社の石段のところで」
老婦人は、自分で言って、自分で首をかしげた。
縁側の風が、彼女の白髪を少しだけ揺らした。
「もう、村にいないはずの子が。なんでか、その夜だけ、帰ってきてた、みたいにねえ」
「誰が見たんですか」
「さあねえ」
老婦人は、湯呑みを置いた。
コトリ、という音が、静かな部屋に響いた。
「みんな、見たような気もするし、誰も見てないような気もする。村の祭りの話なんて、五十年たつと、そんなもんだよ」
五十年。
人の記憶は、五十年もすれば、嘘になる。
でも、嘘になったからといって、価値がなくなるわけではない。
古い写真が色あせるのと同じだ。色あせた写真は、事実としては弱くなる。でも、ときどき、色あせたぶんだけ、何かが濃く写る。
その夜、私は事務所で、地図を広げた。
沈んだ村。その上に、いまは、ダム湖がある。
古い住宅地図を、現在の地図に重ねた。神社の場所。石段。一本道。祭りの広場。
赤ペンで印をつけていく。
仕事で使う赤ペンは、すぐなくなる。人の人生に丸をつけたり、線を引いたりするからだ。
紙の上を滑るペンの音が、夜の事務所に小さく響く。
私は、神社の石段のあった場所に、小さな丸をつけた。
いま、その場所は、水の下にある。
ただし、湖のほとりから見れば、どの岸から見るかで、位置はまるで違って見える。
旧道側から見れば、神社は右手に沈んでいる。
対岸から見れば、神社は正面に沈んでいる。
どちらも、間違いではない。
どちらも、「あの石段のあった場所」だった。
記録と、記憶。
正しいものが二つあると、人は迷う。
ひとつが嘘なら、まだ楽なのだ。
両方、本当の顔をしているから、困る。
会えるはずのない人と、会えるはずのない夜に、会う。
そんなことが、起きる場所が、あるとすれば。
それは、たぶん、時間が、ふつうに流れていない場所だ。
水の底に、時間ごと、沈んでしまった村。
事務所の窓は閉めてあったが、どこからか、虫の音が聞こえてきた。
秋が近づいている。
私は、赤ペンを机に置き、コーヒーを淹れた。
インスタントの、少し酸味のある匂いが、部屋に広がった。
マグカップの温かさが、手のひらに伝わってくる。
依頼人の老人は、五十年間、この地図のない場所を探し続けていたのだろうか。
毎年、祭りの日が来るたびに、いちばんいい帽子をかぶって。
私は、翌日、もう一度ダム湖へ行くことに決めた。
今度は、昼間ではなく、たそがれどきに。
第八話「竜宮の水」
湖は、二つの顔を持つ。
昼間は、ただの水だった。暗い緑色の、山あいにたまった水。
夕方には、鏡になる。
誰かを映そうとしている鏡に。
私は、その水を、二回見た。
この下に村がある、と言われても、うまく信じられなかった。
家も、神社も、石段も、あの一本道も、いまは、この水の下にある。
水に沈んだものは、なくなったわけではない。
ただ、見えなくなっただけだ。
探偵の仕事をしていると、そういうものを、よく見る。
なくなったわけではない。見えなくなっただけ。
人も、記憶も、約束も、たいていは、そのあたりに沈んでいる。
私は、湖のほとりに立った。
風がなかった。水面は、鏡のように動かなかった。
夕方の冷たい空気が、首筋を撫でていく。
私は、コンクリートの護岸に立ち、ただじっと水面を見つめていた。
十分、二十分。
時間が経つにつれて、空の色が変わり、水面の色も変わっていく。
金から橙へ、そして薄紫へ。
そのグラデーションを、私はただ無言で受け止めていた。
足元のコンクリートから、昼間の熱が少しずつ逃げていくのがわかる。
ただ、鏡というものは、きれいなものだけを映すわけではない。
のぞきこめば、こちらの顔も映る。
私は、あまり自分の顔を見たくなかったので、水面から少し目をそらした。
管理事務所の年配の男性が、資料室を開けてくれた。
資料室、と言っても、ほとんど物置だった。
かび臭い紙の匂いと、長い間開けられていなかった部屋特有の、埃っぽい空気が鼻をついた。
蛍光灯をつけると、ジージーという小さな音が鳴り続けた。
古い測量図。水位表。行事の写真。ダム完成式典の集合写真。段ボール箱には、黒いマジックで「昔の村」と書かれていた。
昔の村。
雑な書き方だと思った。
でも、たぶん、人は、なくなったものに対して、だんだん雑な名前をつける。
昔の村。昔の人。昔のこと。
そうしておかないと、重くて持てないからだ。
村が沈む前の年、最後の夏祭りは、ずいぶん寂しいものだったらしい。
もう、半分の家は、村を出ていた。それでも、残った人たちは、神社に灯りをともした。
「その祭りに」と、男性は言った。「三年前に出ていったはずの、佐和子ちゃんが、ひとりで帰ってきたんだと。バスを乗り継いで。誰にも言わずに」
「なぜ」
「約束したんだと。前の年に。『来年の祭りで、また会おう』って。相手の名前は、言わなかったけどね」
私は、依頼人の老人の顔を思い出した。
事務所の椅子に背筋を伸ばして座っていた姿。膝の上の古い帽子。つばだけが、よく手入れされていたこと。
祭りの日だけ、いちばんいい帽子をかぶる男。
その男に会うためだけに、佐和子さんは、沈む前の村へ戻った。
推進派と反対派に分かれ、引き裂かれた二人は、もう二度と会えないはずだった。
彼女の一家が村を出た日、彼は工場の仕事で、見送りにも行けなかった。
だから、彼女は帰ってきたのだ。
最後に、もう一度だけ、彼に会うために。
第九話「たそがれどきの噂」
たそかれの村
第九話「たそがれどきの噂」
「それでね」
管理事務所の男性は、声をすこし落とした。
資料室の薄暗い電球の下で、彼の顔に深い影が落ちていた。
ジージーという蛍光灯の音が、やけに大きく聞こえた。
「ここだけの話、なんだけどね。この湖、たまに、出るって言われてるんだ」
「出る?」
「夕方、日が暮れるちょっと前。たそがれどきにね。湖のほとりに、女の人が立ってるって。水をじっと見てる。声をかけると、いない。……もう、何十年も、そういう話がある」
男性は、笑おうとして、笑いきれない顔をした。
人が本当のことに触れかけているとき、人は、こういう顔をする。
冗談にしたい。でも、冗談にしきれない。
大人の怖い話は、いつも、その間にある。
「幽霊だと思いますか」
私が訊くと、男性は、少し困った顔をした。
「幽霊ってことにしといたほうが、楽なんじゃないかな」
「楽?」
「生きてる人が、五十年も同じ場所に立ってるって考えるほうが、怖いでしょう」
私は、答えなかった。
その通りだと思ったからだ。
幽霊より、生きている人間のほうが怖い。
正確には、生きている人間の、続けてしまった時間のほうが怖い。
帰り際、男性は資料室の明かりを消しながら、思い出したように言った。
ドアの鍵を閉めるガチャリという音が、静かな廊下に響いた。
「そういえば、何年かに一度、水位が大きく下がる年があるんです」
「水位が?」
「ええ。雨が少ない年とか、点検の年とか。そういうときだけ、沈んだ村の道が、少しだけ水の上に顔を出すんですよ」
私は、あの航空写真を思い出した。
村が沈んだあとに撮られた、一本道の人影。
水の上に顔を出した道に、誰かが立っていたのだとしたら。
その人は、幽霊ではなく、生きている人間だ。
五十年間、彼と同じように、湖のほとりに立ち続けていた人間。
私は、佐和子さんの現在の住所を割り出し、車を走らせた。
夕方の光が、フロントガラスをオレンジ色に染めていた。
ラジオをつける気にはなれず、ただエンジンの低い音だけを聞きながら、私は対岸の五十年に向かっていた。
第十話「ビニール紐の風鈴」
その人は、湖から、車で二十分ほどの町に住んでいた。
私は、役場の転出届の記録と、古い電話帳、そしていくつかの聞き込みを繋ぎ合わせて、ようやくその住所にたどり着いた。
古い、小さな一軒家だった。
庭には、手入れされた植木鉢が並び、小さな菜園にはネギが植えられていた。
玄関に、風鈴がひとつ。もう秋なのに、外されずに鳴っていた。
ちりん、と鳴るたびに、少しだけ冷たい風が通り抜けていく。
よく見ると、風鈴の紐は、途中でビニール紐に結び替えられていた。透明な、荷造り用の紐だった。
そういう直し方をする人を、私は嫌いではない。
新しいものに替えれば済む話なのに、替えない。
みっともない直し方をしてでも、そこに残しておく。
たぶん、この家には、そういうものが多い。
私は、インターホンを押す前に、しばらくその風鈴を見ていた。
風が吹くたびに、ちりん、と鳴る。
その音は、どこか遠くから聞こえてくるようだった。
五十年間、この風鈴はここで鳴り続けていたのだろうか。
紐が切れ、ビニール紐で結び直され、それでも同じ音を立てて。
夏が終わっても外されない風鈴は、まるで誰かが帰ってくるのをずっと待っているように見えた。
インターホンを押すと、しばらくして、ゆっくりとした足音が近づいてきた。
すり足のような、静かな音だった。
扉が開いた。
佐和子さん、と、私が名乗ると。
七十を過ぎたその女性は、しばらく私を見て。
それから、静かにうなずいた。
「……やっと、誰か、来てくれたんですね」
やっと。
その言葉は、玄関の風鈴より、ずっと小さく鳴った。
私は、彼女を驚かせないように、ゆっくりと事情を説明した。
依頼人のこと。彼が五十年間、約束を覚えていたこと。
佐和子さんは、玄関先の小さな丸椅子に腰掛けたまま、黙って私の話を聞いていた。
彼女の手は、膝の上で静かに組まれていた。
その手には、深い皺が刻まれ、五十年の労働と生活の跡があった。
私は、あの航空写真を見せた。
水没した村の、一本道に、ぽつんと写った人影。
佐和子さんは、写真を長いあいだ見ていた。
それから、そっと首を横に振った。
「……これには、何も、写っていませんよ」
声は、おだやかだった。
でも、その手が、写真の人影のところを、指先でそっと隠したのを、私は見た。
人は、見たくないものを隠すとき、だいたい見えている。
彼女の指先が、わずかに震えていた。
第十一話「五十年のすれ違い」
佐和子さんは、話してくれた。
あの、最後の祭りの夜。約束を守るために、ひとりで村へ帰ったこと。石段で、彼と会えたこと。
「あの人、その夜も、いちばんいい帽子を、かぶっていました」
佐和子さんは、少し笑った。
その笑顔には、七十歳の皺の奥に、十代の少女の面影がたしかに残っていた。
彼女が笑うと、目尻の皺が深く刻まれ、五十年前の提灯の明かりの下で微笑んだ少女が、一瞬だけそこに戻ってきたようだった。
「祭りの日は、いつも、そうなんです。いつもより、ちょっとだけ背筋を伸ばして、帽子をかぶって、石段の下で待っているんです。だから、遠くからでも、すぐ、わかった」
もう一度、約束したこと。「来年も、また、ここで」と。
でも、その冬、村は沈んだ。
「だから、次の年、行ったんです。祭りの場所へ。もう、水しか、なかったけれど。湖のほとりに立って、待ちました。……でも、彼は来ませんでした」
風鈴が、また小さく鳴った。
佐和子さんもまた、五十回の夕暮れを経験していたのだ。
最初の十年は、きっと彼が来るかもしれないと信じて。
次の十年は、今年で最後にしようと思いながら。
その次の十年は、もう彼が来ないことを受け入れながら、それでも足を運んでしまった。
「それから、毎年、行きました。たそがれどきに。あの帽子が、見えるんじゃないかと思って。でも、一度も、会えなかった。だから、私は、思ったんです。ああ、あの人は、私のことなんて、忘れたんだな、と」
私は、すぐには何も言えなかった。
玄関の土間に落ちる夕方の光が、少しずつ長くなっていた。
私は、その光の伸びる速度を、ただ黙って見ていた。
遠くで、カラスが鳴いている。秋の夕暮れの、あの独特の寂しい鳴き声だ。
彼もまた、五十年、湖のほとりに通っていた。
佐和子は、もう来ない、と、思い続けていた。
二人とも、来ていた。
二人とも、相手が来なかったと思っていた。
私は、持参した地図を広げた。
佐和子さんが毎年立っていた場所に、印をつけてもらった。
旧神社の石段が、正面に沈んでいると思っていた場所。
次に、依頼人の老人が毎年立っていた場所を、私が記憶から印した。
旧道側の、小さな駐車スペースのそば。役場の移転図では、そこが「神社入口跡」に一番近いことになっていた。
二つの印は、同じ湖のほとりにあった。
でも、向かい合ってはいなかった。
湖の曲がり方と、山の影と、夕方の光の向きが、二人の視線を少しずつずらしていた。
水位が低い年には、湖の中に古い石垣が見えることがあった。
彼は、それを旧道側から見た。
佐和子さんは、対岸から見た。
同じものを見て、別の場所だと思っていた。
同じ場所に通っていた、という言い方は、間違っていない。
でも、同じ場所ではなかった。
記憶の中の石段は、二人の中で、別々の岸に沈んでいた。
「……彼も、来ていたんですか」
佐和子さんが、地図を見たまま訊いた。
私は、黙っていた。
答えは、もう、地図の上にあった。
「来ていたんですね」
佐和子さんは、そう言って、ビニール紐で結ばれた風鈴を見た。
風鈴は、鳴らなかった。
風が、止まっていた。
あなたは、こんなすれ違いを、信じますか。
十二話「探偵の迷い」
探偵の仕事は、探し物を、見つけることだ。
でも、本当は、見つけたものを、どうするかを決める仕事でもある。
私は、佐和子さんを見つけた。生きていた。彼のことを、五十年、忘れずにいた。
このことを、依頼人に伝えるべきか。
伝えれば、二人は会える。
でも、五十年は戻らない。若かった二人は、もう、どこにもいない。失われた歳月が、いっきに白い煙になって、二人を包むだろう。
伝えないほうが、しあわせなのかもしれない。
きれいな思い出のまま、そっとしておくほうが。
私は、迷った。
こういうとき、探偵には、便利な逃げ道がある。
「発見に至りませんでした」と書けばいい。
嘘ではない。発見したあと、見つけなかったことにすればいいだけだ。
そういう報告書を、私はこれまで何度か書いてきた。
誰かを守るために。
あるいは、自分が面倒を背負わないために。
その区別は、思っているほど簡単ではない。
私は事務所のパイプ椅子に深く座り、コーヒーカップの底に残った黒い染みを見つめていた。
機織りの音は、今日は聞こえなかった。
結城の町も、少しずつ静かになっていく。
窓の外では、夕暮れの空がゆっくりと色を変えていた。
このまま何もしなければ、あの二人は、来年もまた、すれ違う岸辺で夕日を見るのだろう。
五十一回目の夕暮れを。
そして、いつかどちらかが湖へ来られなくなり、その約束は誰にも知られずに終わる。
その沈黙を、私が背負う覚悟があるのか。
でも、私は、決めた。
たそかれどきに、湖のほとりで会う約束を、二人に取りつけた。
どちらにも、相手が来ることは言わずに。
沈んだ石段の代わりに、湖のほとりの低いコンクリートの段に、腰かけて待てるようにしておいた。
そこは、二人が五十年間立っていた二つの場所の、ちょうど真ん中だった。
神社の石段とは、何の関係もない場所だった。
けれど、五十年後の石段としては、そこしかなかった。
第十三話「また、会おう」
その日、空は、燃えるような夕焼けだった。
水面が、金色と藍色に揺れて、まるで、空をもう一枚、沈めたみたいだった。
風はなかった。
湖畔の草が、夕方の光を吸い込んで、オレンジ色に光っていた。
私は、少し離れた車の中で、エンジンを切って待っていた。
窓を少し開けると、湖の冷たい空気が流れ込んできた。
老人が、先に来ていた。
いちばんいい帽子をかぶって。杖をついて、水を見ていた。
その帽子のつばは、やはり、よく磨かれていた。
彼は、コンクリートの段差に腰を下ろすこともなく、ただまっすぐに立っていた。
五十年間、彼がそうしてきたように。
彼の背中は、夕焼けの逆光の中で、黒いシルエットになっていた。
そこへ、佐和子さんが、ゆっくりと歩いてきた。
砂利を踏む音が、静かな湖畔に小さく響いた。ジャリ、ジャリ、という一定のリズム。
佐和子さんは、その帽子を、遠くから見つけた。
五十年間、ずっと探していた帽子を。
彼女の足が、一瞬だけ止まった。それから、またゆっくりと歩き出した。
老人が、振り返った。
二人は、向かい合っていた。
何も言わなかった。
言えなかった、というより、言い方が分からなかった。
五十年間、言いたかったことが多すぎた。
多すぎて、どこから始めればいいのか、分からなかった。
最初の言葉を間違えると、全部が崩れてしまうような気がした。
老人は、帽子を胸の前で持っていた。
両手で、つばを握っていた。
その手が、微かに震えていた。
老いた手だった。節が太く、皮膚が薄く、血管が浮いている。
でも、帽子を持つ力だけは、確かだった。
佐和子さんは、その手を見ていた。
五十年前、彼の手は、もっと若かった。
工場の油で黒ずんでいたけれど、皮膚は張っていて、節はまだ細かった。
今の手は、別の手のようだった。
でも、帽子を持つ角度が、同じだった。
五十年前も、彼はこうして帽子を持っていた。
その角度だけが、変わっていなかった。
老人は、佐和子さんの顔を見ていた。
五十年前の顔を、今の皺の奥に探していた。
目尻の皺の形。
少しだけはにかむように笑う癖。
その癖は、残っていた。
皺の奥に、確かに残っていた。
湖の風が、二人の間を通り抜けた。
帽子のつばが、少しだけ揺れた。
老人が、口を開いた。
でも、声にならなかった。
息だけが、白く漏れた。
秋の夕暮れの冷たい空気の中で、その息が、すぐに消えた。
佐和子さんが、目を細めた。
泣いているのか、笑っているのか、私には分からなかった。
たぶん、どちらでもあった。
私は、少し離れた場所で、その沈黙を見ていた。
探偵の仕事は、言葉を集めることだ。
でも、この沈黙には、言葉よりも多くのものが入っていた。
五十年分の夕暮れ。
五十回の帽子。
五十回の風鈴。
五十回、すれ違い続けた、同じ湖の岸辺。
私は、それを翻訳しようとした。
でも、できなかった。
翻訳できないものが、ある。
翻訳できないまま、そこにある。
それが、この二人の五十年だった。
老人が、もう一度、口を開いた。
今度は、声になった。
かすれた、低い声だった。
五十年前より、ずっと低くなっていた。
「……佐和子」
その一言だけだった。
名前だけだった。
でも、その一言の中に、五十年が入っていた。
佐和子さんは、笑った。
泣きながら、笑った。
「来て、くれたんですね。――やっと」
二人は、しばらく、何も言わずに、見つめ合った。
十秒、二十秒、三十秒。
その沈黙の長さを、私は少し離れた場所から計っていた。
それは、ただの沈黙ではなかった。五十年の時間を、お互いの目の中に見つけるための時間だった。
しわの数。白くなった髪。小さくなった背中。
それらを一つ一つ確認し、その奥にある、五十年前の顔を探り当てるための三十秒。
昼と夜の、あわいの光が、二人の皺だらけの顔を、若い頃の輪郭に、そっと戻していくように見えた。
老人が、帽子を脱ごうとした。
その拍子に、杖を落とした。
乾いた音が、コンクリートの上に転がった。
カラン、という音が、湖面を滑って、遠くの山に吸い込まれていった。
佐和子さんが、あわてて拾おうとした。
老人も、拾おうとした。
二人とも、腰を曲げるのが、少し遅かった。
先に拾ったのは、私だった。
映画みたいには、いかない。
五十年ぶりの再会は、杖が一本、先に転がる。
私は、杖を老人に渡した。
老人は、少し恥ずかしそうに笑った。
佐和子さんも、泣きながら、少し笑った。
その笑いで、五十年が、ほんの少しだけ、人間の形になった。
私は、すこし離れた場所で、それを見ていた。
二人の、失われた五十年は戻らない。それは、本当だ。
でも。
たそかれどきの、ほんの、みじかい時間だけ。
時間が、止まっているように見えた。
沈んだ村の、あの祭りの夜に。
二人が、まだ若かった、あの夜に。
いや、正確には、止まって見えただけだ。
時間は、止まらない。
だからこそ、止まって見えた、その一瞬が、いとおしい。
第十四話「五十年の重さ」
二人は、コンクリートの段差に並んで腰を下ろした。
間に、少しだけ距離があった。
五十年の距離だ。
すぐに手を握り合うようなことはなかった。ただ、同じ湖面を並んで見ていた。
私は、車に戻り、エンジンをかけずに待っていた。
窓を開けると、湖から冷たい風が吹き込んできた。
二人の後ろ姿が、夕焼けの逆光の中で、黒いシルエットになっていた。
時折、老人が何かを言い、佐和子さんが小さくうなずくのが見えた。
でも、声は聞こえなかった。
何を話しているのかは、聞こえなかった。
聞こえなくていいと思った。
五十年間、別々の岸辺で、同じように湖面を見つめていた二人が、今、同じ岸辺で同じ湖面を見ている。
それだけで、十分だった。
空の色が、金から紫へ、そして深い藍色へと変わっていった。
たそがれどきが終わろうとしていた。
夜が来れば、この魔法のような時間は終わる。
二人は、それぞれの現実へ帰っていかなければならない。
結城の町へ。風鈴のある小さな家へ。
でも、明日からは、もう「来ないかもしれない人」を待つ必要はない。
五十回の夕暮れは、今日で終わったのだ。
すっかり日が落ちた頃、二人は立ち上がった。
老人が、もう一度帽子をかぶった。
佐和子さんが、小さくお辞儀をした。
私は、車から降りて、二人のところへ向かった。
「ありがとうございました」と、老人が言った。
その声は、最初に事務所へ来たときよりも、少しだけ力強かった。
私は、二人をそれぞれの家まで送り届けた。
帰り道、車の中は静かだった。
ラジオをつける気にはなれなかった。
ただ、タイヤがアスファルトをこする音だけが、一定のリズムで聞こえていた。
探偵の仕事は、探し物を見つけることだ。
でも、本当は、見つけたあとの余韻を、一人で味わう仕事でもある。
私は、車の窓を少し開けた。
夜の冷たい空気が、火照った顔を冷やしてくれた。
第十五話「本当のこと」
依頼の報告書に、私は書いた。
「探し人は、見つかりました。約束は、果たされました」と。
いつもの私なら、ここで、嘘を書いたかもしれない。
「見つかりませんでした」と。
そのほうが、そっとしておける場合もあるからだ。
でも、この件だけは。
本当のことを、書きたかった。
ここまで読んでくれた、あなたへ。
もし、あなたにも、「また会おう」と約束したまま、会えていない人がいるなら。
その人は、もしかしたら、いまも、どこかの、たそかれどきに。
あなたを、待っているかもしれません。
「あなた」とは、この話を読んだ、あなたのことです。
そして――五十年、湖のほとりに立っていた、佐和子さんのことでもあります。
(了)
────────────────
(※1)帽子だけは、古くなかった。
(※2)役場の記録は、正しい。日付は、間違っていない。
(※3)撮影日を、私は三度、見直した。三度とも、同じ日付だった。
(※4)その夜だけ、帰ってきていた。
(※5)正しい場所が二つあるとき、人は、たいてい、会えない。
(※6)水の底で、時間が止まる。そういう話を、私たちは、子どものころ、誰かに聞かされている。
(※7)風鈴の紐は、ビニールだった。そこだけ、妙に新しかった。
(※8)人影を、指で隠す。それが、答えだった。
(※9)この迷いだけは、嘘ではない。
(※10)杖が落ちた音で、二人は、五十年ぶりに笑った。
(※11)「やっと」。この一言に、五十年が、入っている。
(※12)この話で、私は、一度も、嘘をつかなかった。それだけは、信じてほしい。