先生、人が消えます。
北関東の行政書士事務所に、深夜、一本の電話がかかってくる。「先生。人が消えます」。訪ねてきた男は、名前を言わず、料金別納の白い封筒だけを置く。中には、誰もが知る大物政治家の名前があった。男は裏にいる。もう一人、表にいる男がいる。そして老人は、名前を呼ぶだけで人を動かす。行政書士・長澤は、封筒、書類、小物、沈黙、人の癖から背景を読み、法の内側で勝ち方を探していく。
第1話 長澤先生でしょうか
【あらすじ】
北関東の行政書士事務所に、深夜、一本の電話がかかってくる。「先生。人が消えます」。訪ねてきた男は、名前を言わず、料金別納の白い封筒だけを置く。中には、誰もが知る大物政治家の名前があった。男は裏にいる。もう一人、表にいる男がいる。そして老人は、名前を呼ぶだけで人を動かす。行政書士・長澤は、封筒、書類、小物、沈黙、人の癖から背景を読み、法の内側で勝ち方を探していく。
夜の一時を過ぎると、行政書士事務所の電話は鳴らない。
昼間はよく鳴る。
相続。離婚。会社設立。農地転用。
人は困ると、最後には紙のところへ来る。
私はコピー機の主電源を落とし、応接テーブルを拭いた。
缶コーヒーの輪染み。ボールペンの跡。誰かが座った後に、ほんの少しだけずれた椅子。
書類より先に、そういうものを見る癖がある。
仕事柄だ。
携帯が震えた。
知らない番号だった。
私は出た。
「長澤先生でしょうか。」
男の声だった。
低い。
焦っていない。
こちらが電話に出ることを、最初から知っていたような声だった。
「そうですが。」
男は言った。
「先生。人が消えます。」
私は少し笑った。
「それは警察ですね。」
男は否定しなかった。
肯定もしなかった。
ただ、一言だけ返した。
「先生の仕事です。」
私は時計を見た。
午前一時十三分。
「内容によります。」
「人がいなくなった後の書類を作っていただきたいんです。」
私は机の上のメモ帳を引き寄せた。
相手の話は最後まで聞く。
途中で結論を出さない。
嘘をつく人間は、最後の一言で呼吸が変わる。
この男は変わらなかった。
「相続ですか。」
「違います。」
「では、ご本人は亡くなられた?」
「まだ生きています。でも、社会から消えます。」
私はペンを止めた。
この仕事を二十年以上やっていると、聞かなかったことにできる話と、聞いた瞬間から人生のどこかに残る話がある。
これは後者だった。
「どちらにいらっしゃいますか。」
「先生の事務所の前です。」
窓の外を見た。
雨だった。
駐車場の隅に、黒いセダンが一台停まっていた。
エンジンは切れている。
街灯に照らされた雨粒だけが、車体の上で静かに光っていた。
私は玄関の鍵を開けた。
男は傘を持っていなかった。
革靴だけが濡れている。
コートは乾いている。
どこかで雨宿りをしてから歩いてきた人間の濡れ方だった。
「遅くにすみません。」
男は頭を下げた。
派手なものはない。
時間を裏切らない人の時計だった。
私は応接へ通した。
缶コーヒーを一本差し出す。
男は受け取らない。
代わりに煙草を一本取り出した。
火はつけない。
指先で静かに転がしている。
「ここは禁煙です。」
「でしょうね。」
男は笑った。
自然な笑いだった。
ただし、本音ではない。
人を安心させるために作られた笑いだった。
私は相談票を差し出した。
「お名前を。」
男はペンを取らなかった。
「今は言えません。」
「それでは仕事になりません。」
「先生は、名前が必要ですか。」
「仕事には必要です。」
男は私を見た。
目を逸らさない。
私も逸らさない。
十秒。
二十秒。
普通の人間なら、たいてい先に視線を切る。
照れくさくなる。
居心地が悪くなる。
この男は切らなかった。
珍しい。
男は鞄から白い封筒を出し、机の上へ置いた。
「中に名前があります。」
私は封筒を見た。
白い封筒。
左上に料金別納。
宛名はない。
手書きでもない。
差出人もない。
一見、何の変哲もない。
私は封筒を持ち上げた。
軽い。
もう一度見る。
分からない。
男が少しだけ口元を緩めた。
「難しかったですね。」
その言い方は、失礼ではなかった。
むしろ丁寧だった。
だから余計に、少し腹が立った。
私は封筒を置いた。
分からない時、人は書類を見続ける。
でも、答えはたいてい書類の上にはない。
私は封筒から目を離した。
男を見た。
煙草。
相談票。
缶コーヒー。
革靴。
濡れていないコート。
封筒。
全部を一枚の絵として見た。
あ。
「あなた。」
男の指が止まった。
「この封筒を作った人ではありませんね。」
男は何も言わなかった。
「料金別納は左上です。これは大量に郵便を出す組織が使う封筒です。役所、議員事務所、大きな会社。少なくとも、個人が夜中に一通だけ持ってくるものではない。」
私は封筒を机に戻した。
「でも、あなたはその組織の人間じゃない。」
「なぜです。」
「封筒の持ち方です。」
男の目が、わずかに細くなった。
「毎日こういう封筒を扱う人間は、封筒を持った時に角を気にしません。あなたは、机に置く時も、持ち上げる時も、角を潰さないようにしていた。」
私は男の指を見た。
「届ける人の持ち方です。」
沈黙が落ちた。
雨の音だけが聞こえた。
男は、初めて本当に笑った。
「安心しました。」
私は聞いた。
「何がです。」
「先生を訪ねて、正解でした。」
男は封筒をこちらへ押した。
「開けてください。」
私は封筒を開けた。
中には一枚の紙が入っていた。
名前だけが書かれている。
私は、その名前を見て息を止めた。
テレビで何度も見た名前だった。
新聞でも見る。
選挙のたびに見る。
地元では神様のように言われ、国会では影のように恐れられている老人。
誰でも知っている政治家の名前だった。
私は紙を机に戻した。
「これは、冗談で済む名前ではありません。」
「冗談ではありません。」
「この人は生きていますね。」
「はい。」
「では、なぜ“いなくなった後”の書類が必要なんです。」
男は煙草を箱に戻した。
「その人は、もう長く表には残れません。」
「病気ですか。」
「いいえ。」
「事件ですか。」
男は答えなかった。
答えないことが、答えだった。
私は封筒を閉じた。
「お引き取りください。」
男は動かなかった。
「これは犯罪の相談です。」
「まだ何も起きていません。」
「起きる前だから悪いんです。」
男はうなずいた。
「先生は、そう言うと思っていました。」
「では、なぜ来たんです。」
「止めてほしいわけではありません。」
「なら、なおさら帰ってください。」
「先生には、見ていてほしいんです。」
「見ているだけなら、仕事ではありません。」
「いずれ、先生の仕事になります。」
男はポケットから古い十円玉を出した。
縁が少し削れ、色が鈍くなっている。
机の上に置く。
「高校生の時、これ一枚で人生を決めました。」
「何をです。」
「表に行くか、裏に行くか。」
私は十円玉を見た。
触らなかった。
「あなたは裏を引いた。」
男は少しだけ笑った。
「なぜ分かります。」
「今、表にいる人間は、そんな言い方をしません。」
男は黙った。
私は続けた。
「あなたには、表にいる誰かがいる。」
その時、男の携帯が震えた。
男は画面を見た。
一瞬だけ、顔が緩んだ。
それは計算ではなかった。
「出なくていいんですか。」
「いいんです。」
「待たせている人ですか。」
男は少し考えてから言った。
「待たせているんじゃない。待ってくれているんです。」
その一言で、この男が私の知らない夜を生きている人間だと分かった。
私は封筒を机の上に置いたまま、立ち上がった。
「今日のところは、お帰りください。」
男も立ち上がった。
私は玄関まで送った。
ドアを開ける。
雨は小降りになっていた。
男が外へ出る。
私は自然に言った。
「ありがとうございました。」
男の足が止まった。
振り返らない。
一秒。
二秒。
「こちらこそ。」
静かな声だった。
それから、男はもう一歩だけ進み、立ち止まった。
「先生。」
「はい。」
「次は、表の人間に会ってください。」
「表の人間。」
「私とは正反対です。」
私は黙っていた。
「明るい場所にいます。テレビにも出る。人前で笑い、握手をし、国の未来を語る。」
男は少し笑った。
「でも、私より厄介です。」
「警察ですか。」
「いいえ。」
男は初めて、こちらを振り返った。
「政治家です。」
ドアが閉まった。
私はしばらく玄関に立っていた。
机の上には、封筒と十円玉が残っている。
まだ何も起きていない。
誰も死んでいない。
誰も消えていない。
それでも、もう始まっていた。
私は封筒を見た。
十円玉を見た。
そして、さっき男が言った言葉を思い出した。
人が消えます。
その夜。
消え始めていたのは、
あの老人じゃない。
私だった。
第2話 まだ座りません
翌日の昼、私は宇都宮駅近くのホテルにいた。
最上階のラウンジ。
窓の外には、雨上がりの街が薄く光っていた。
政治家と会う場所としては、分かりやすすぎる。
分かりやすすぎる場所は、たいてい罠ではない。
罠に見せないための舞台だ。
私は時間より十分早く着いた。
入口の前で、若い男が立っていた。
秘書だろう。
スーツは新しい。靴は磨いてある。だがネクタイの結び目だけが少し硬い。
緊張している人間は、首元を締めすぎる。
「長澤先生ですね。」
「まだ先生と呼ばれるほどでは。」
「先生です。」
若い男は笑った。
笑ったが、目だけは笑っていなかった。
練習した笑顔だった。
私は案内されるまま奥へ進んだ。
窓際の席に、水が二つ置かれていた。
片方は氷なし。
片方は氷あり。
私はまだ何も頼んでいない。
店員は私を見る前に、テーブルへ手を伸ばした。
秘書が椅子を少し引く。
警備らしい男が、壁際へ一歩下がる。
周囲の客が、見ないふりをしてこちらを見ている。
本人は、まだ来ていない。
でも、空気はもう来ていた。
「どうぞ、お掛けください。」
声がした。
振り返ると、男が立っていた。
テレビで何度も見た顔だった。
若い。
いや、若く見えるようにしている。
目元には疲れがある。だが、口元は明るい。握手を求める手は、相手に断らせない角度で差し出されていた。
「長澤先生。お会いできて光栄です。」
「こちらこそ。」
私は握手をした。
手は温かかった。
政治家の手は、握手のために温度まで管理されているのかもしれない。
「どうぞ。」
表の男は、椅子を示した。
私は座らなかった。
「まだ座りません。」
表の男が止まった。
秘書も止まった。
店員も、水差しを持ったまま止まった。
一瞬、ラウンジの音が薄くなった。
「なぜ。」
表の男が聞いた。
「あなたがまだ話していないからです。」
男は私を見た。
そして、笑った。
初めて、テレビの顔ではない笑いだった。
「困ったな。」
それだけだった。
その一言で、秘書が動きかけた。
私は手で止めた。
「秘書さん。今のは命令じゃないです。」
秘書は固まった。
表の男がもう一度笑った。
「よく見ていますね。」
「見る仕事です。」
「行政書士は、書類を見るのでは。」
「書類の前に、人がいます。」
男はうなずいた。
「座ってください。今度は、私がお願いしています。」
私は座った。
表の男も座った。
秘書は一歩下がった。
店員が水を置く。
私は言った。
「ありがとうございます。」
店員が少しだけ表情を緩めた。
表の男はそれを見ていた。
「先生は、誰にでもそう言うんですね。」
「言われた人が、少し嬉しそうな顔をするので。」
「政治家向きです。」
「嫌です。」
男は短く笑った。
「昨日の男に会いましたね。」
「名前は、まだ聞いていません。」
「聞かない方がいい。」
「仕事になりません。」
「先生は、そう言う。」
男は水を飲まなかった。
コースターの端を、人差し指で一度だけ押した。
それを合図に、秘書が資料を出した。
命令していない。
でも、動く。
この男は、人を動かす。
自分で選んだと思わせて、動かす。
「あなたは、命令しないんですね。」
「しますよ。」
「していません。」
男は黙った。
私は続けた。
「秘書さんは、あなたが困った顔をする前に動く。店員は、あなたが来る前に水を置く。警備は、あなたが席に着く前に下がる。あなたの周りでは、先に空気が作られる。」
男は笑わなかった。
「怖いですね。」
「どちらが。」
「先生が。」
「あなたほどでは。」
男はやっと水を飲んだ。
「あの人に、会ってもらいます。」
「封筒の名前の人ですか。」
「はい。」
「私は受けると言っていません。」
「分かっています。」
「なのに、会わせる。」
「会えば、断れなくなる。」
短い。
正直すぎる。
私は少し笑った。
「それを先に言う政治家は、珍しい。」
「嘘をつく必要がない相手には、つきません。」
「では、私は嘘をつかれない相手ですか。」
「まだ。」
男はそう言った。
まだ。
この二日で、私はその言葉が嫌いになり始めていた。
「老人は、どんな人ですか。」
男はしばらく黙った。
窓の外を見た。
街は晴れている。
ここだけが、少し暗かった。
「先生。」
「はい。」
「あの人に、名前を呼ばれないでください。」
「昨日も似たことを言われました。」
「なら、信じてください。」
「名前を呼ばれると、どうなるんです。」
男は笑った。
困ったような笑いだった。
「返事をした人間は、だいたい動きます。」
「催眠術ですか。」
「違います。」
「では。」
男は水のグラスを置いた。
「貸しです。」
その一言だけだった。
政治の説明はなかった。
派閥も、政策も、理念も出てこない。
ただ、貸し。
人間を動かすには、それで十分な時がある。
男は立ち上がった。
「明日、迎えを出します。」
「まだ受けていません。」
「はい。」
「分かっていない返事ですね。」
「分かっています。」
男は言った。
「先生が、断る勝ち方を探していることも。」
私は何も言えなかった。
表の男は、握手を求めなかった。
代わりに、軽く頭を下げた。
それだけで秘書が動き、警備が動き、店員が出口の方を見た。
人が勝手に動く。
本人は、笑っているだけだった。
帰り際、秘書がエレベーターのボタンを押した。
私は言った。
「ありがとうございます。」
秘書は驚いたように私を見た。
「いえ。」
その顔を見て、私は思った。
この男の周りで働く人間は、礼を言われることに慣れていない。
それも、ひとつの情報だった。
第3話 返す時だ
翌日、迎えに来た車は黒ではなかった。
白い国産車だった。
運転手は何も言わない。
後部座席には、昨日の秘書がいた。
「おはようございます。」
「おはようございます。」
「すみません。場所は着いてから。」
「秘密にするほど、遠いんですか。」
秘書は困った顔をした。
「近いです。」
「近い方が怖いですね。」
秘書は笑わなかった。
本当に怖いらしい。
車は市街地を抜け、古い日本家屋の前で止まった。
門は大きい。
だが派手ではない。
庭はよく手入れされていた。金をかけている庭ではない。人を使っている庭だった。
玄関に入ると、空気が変わった。
音が少ない。
人はいる。
いるのに、音を立てない。
廊下の奥で、誰かが障子を開けた。
座敷に通された。
表の男がいた。
裏の男もいた。
二人は並んでいない。
距離があった。
表と裏。
同じ部屋にいるのに、別の照明の下にいるようだった。
裏の男は長袖だった。
室内は暖かい。
それでも長袖。
左手は膝の上。
指先は軽く丸めている。
小指が見えない角度だった。
生活だ。
あの人は毎日、ああしている。
毎日、隠している。
障子の奥から、老人が入ってきた。
歩く速度は遅い。
背は高くない。
白いシャツに、薄い灰色のカーディガン。
政治家には見えなかった。
ただの、年を取った男に見えた。
だから怖かった。
部屋の全員が、呼吸を変えた。
表の男の背中が少し伸びる。
秘書が目を伏せる。
裏の男は煙草を持っていない。
老人は座った。
茶が出た。
老人は湯呑みを両手で持った。
それだけで、誰も話さなくなった。
沈黙。
私はその沈黙を見た。
誰かが話し始める前の沈黙ではない。
老人が許すまで、誰も動けない沈黙だった。
老人が私を見た。
「長澤先生。」
部屋の空気が固まった。
表の男の視線が、ほんの少しだけ私に向いた。
返事をするな。
そういう目だった。
私は返事をしなかった。
一拍置いた。
「委任状をいただいていません。」
老人の湯呑みが止まった。
裏の男が、ほんの少しだけ笑った。
表の男は笑わなかった。
老人は私を見た。
長い目ではない。
短い。
一秒。
それで十分だった。
「面白い。」
老人はそう言った。
声は小さかった。
誰も聞き返さない。
聞き返す必要がない音量で、小さかった。
「行政書士か。」
「はい。」
「人の書類を書く仕事だ。」
「人が書けないことを書く仕事です。」
老人は茶を飲んだ。
「言うね。」
「仕事柄です。」
老人は笑わなかった。
「この人が、先生ですか。」
表の男が言った。
老人は表の男を見なかった。
湯呑みを置いた。
「返す時だ。」
それだけだった。
誰も聞き返さない。
誰も「何を」と言わない。
言えない。
私は言った。
「何をですか。」
秘書が小さく息を飲んだ。
老人は私を見た。
「貸しだ。」
「誰に。」
老人は茶托の位置を少し直した。
「みんなに。」
短すぎる答えだった。
だが、部屋の中の何人かが、顔を変えた。
みんな。
この老人は、人間関係を持っているのではない。
貸し借りを持っている。
昔の出来事を、今になって動かす。
「先生。」
裏の男が初めて口を開いた。
「そのくらいで。」
私は裏の男を見た。
彼は笑っていなかった。
止めたのではない。
守ったのだ。
私を。
「ありがとうございます。」
私は言った。
裏の男は少しだけ目を伏せた。
老人が立ち上がった。
話は終わった。
誰も終わりを告げていない。
でも終わった。
廊下へ出る時、老人が背中越しに言った。
「次は、返事をするといい。」
私は振り返らなかった。
「考えておきます。」
老人は何も言わなかった。
茶の匂いだけが、部屋に残った。
第4話 見せる書類
事務所に戻ると、封筒が届いていた。
白ではない。
薄い灰色。
差出人は、地域文化振興機構。
料金別納ではなかった。
普通郵便。
切手の角が少し曲がっている。
人の手で貼ったものだ。
私は開けた。
中には、議事録、代表者変更届、辞任届、印鑑証明書の写し。
きれいに揃っていた。
揃いすぎていた。
行政書士の事務所には、毎日のように書類が来る。
普通の書類は、少し汚い。
日付が一日ずれる。
名前のふりがなを忘れる。
印鑑が薄い。
議事録の肩書きが前のまま残る。
人間が作るものだからだ。
この書類には、それがなかった。
完璧だった。
完璧な書類は、怖い。
私は裏の男に電話した。
すぐ出た。
「はい。」
「届きました。」
「見ましたか。」
「見ました。」
「どうです。」
「通ります。」
沈黙。
「ただし、通す書類じゃありません。」
裏の男は黙った。
「見せる書類です。」
「誰に。」
「あとで見る人間に。」
「分かった。」
短い。
それで終わる。
この男は、分かったと言う時、本当に分かっている。
私は続けた。
「事務所に来られますか。」
「今から。」
「長袖で。」
「いつもです。」
電話は切れた。
三十分後、裏の男が来た。
雨は降っていない。
それでも長袖だった。
袖口のボタンはきちんと留まっている。
夏でも冬でも、この人はこうしているのだろう。
人に見せない生活は、生活の方が体に染みる。
私は書類を並べた。
「不備はありません。」
「なら。」
「だから変なんです。」
裏の男は椅子に座った。
火のついていない煙草を一本、指で転がしている。
「何が。」
「議事録の日付。辞任届の日付。印鑑証明の発行日。全部きれいすぎます。」
「きれいだと、だめですか。」
「だめではありません。」
私は一枚を指した。
「でも、普通は誰か一人くらい遅れます。老人の周辺にいる人間が、全員同じ速度で動いている。誰かが先に段取りを組んでいます。」
裏の男は煙草を箱に戻した。
「先生。」
「はい。」
「通さないんですか。」
「通します。」
裏の男が私を見た。
「用途を変えて。」
「どういう意味です。」
「これは、あとで誰かに見せるための書類です。なら、こちらは“見せられて困る形”で受付に出します。」
私は申請書の控えを出した。
「受付印を取ります。」
「それだけ。」
「それだけです。」
「小さいですね。」
「小さいものしか残らない時があります。」
裏の男は少し笑った。
「信用されてるんじゃありません。」
「何がです。」
「俺は、安心されてるだけです。」
私は男を見た。
「依頼人に?」
「みんなに。」
彼は袖口を少し押さえた。
小指は見えない。
「安心されると、人は隠したいことを置いていく。」
「それで仕事になる。」
「はい。」
「楽ですか。」
「まさか。」
裏の男は短く笑った。
「疲れます。」
その声だけは、本音だった。
私は書類を封筒に戻した。
「この書類、老人を守っていません。」
裏の男の指が止まった。
「では。」
「老人を切り離しています。」
男は何も言わなかった。
沈黙だけが残った。
彼の煙草には、最後まで火がつかなかった。
第5話 いない人
翌朝、私は書類を床に並べた。
机では足りなかった。
議事録。
辞任届。
就任承諾書。
印鑑証明。
法人番号。
登記事項証明書。
人間は紙になると、妙に静かになる。
だが、静かな紙ほどよく喋る。
私は日付を赤で囲んだ。
早い。
全部が早い。
早すぎる。
普通、こういう手続きでは誰かが遅れる。
印鑑証明を取り忘れる。
本人確認書類を間違える。
住所が古い。
押印欄の横に、なぜかシャチハタを押す。
それが人間だ。
ここには、人間の遅さがない。
私は表の男に電話した。
「先生。」
「一人、いません。」
「誰が。」
「それを聞きたいんです。」
「困ったな。」
本当に困っている声ではない。
困った顔を作っている声だった。
「先生が決めてください。」
「その言い方は嫌いです。」
「なぜ。」
「選ばされている気がする。」
少し沈黙。
「鋭いですね。」
「褒められると、だいたい危ない。」
表の男は小さく笑った。
「事務所へ伺います。」
一時間後、表の男が来た。
黒い車ではない。
普通のタクシーだった。
降りる時、運転手に丁寧に礼を言っていた。
そういうところを見せるのが、うまい。
事務所に入ると、表の男は床の書類を見た。
「壮観ですね。」
「散らかっているだけです。」
「先生の机らしい。」
「初めて来た人に言われると、少し腹が立ちます。」
男は笑った。
私は一枚の議事録を指した。
「ここに出席者名があります。」
「はい。」
「全員、署名が早い。」
「協力的だった。」
「違います。」
私はもう一枚を出した。
「この法人、昔は理事が一人多かったはずです。」
表の男の顔が止まった。
「なぜ。」
「古い議事録の番号が飛んでいます。第四号議案の次が第六号議案。第五号議案だけ抜けている。」
男は黙った。
「抜けた議案は、人事です。」
「推測です。」
「はい。」
「危ないですね。」
「だから呼びました。」
私は名前を書いたメモを置いた。
「この人を呼んでください。」
表の男はメモを見た。
「難しい。」
「生きていますか。」
「はい。」
「なら呼べます。」
「来ません。」
「あなたなら来させられる。」
表の男は苦笑した。
「買いかぶりです。」
「いいえ。」
私は男を見た。
「あなたは、人に自分で選んだと思わせる人です。」
表の男はしばらく黙った。
それから、携帯を出した。
電話をかける。
「私です。」
短い。
相手の声は聞こえない。
「来てください。」
それだけ。
電話は切れた。
「来ます。」
「ほら。」
「先生。」
「はい。」
「嫌な人ですね。」
「最近よく言われます。」
三十分後、年配の男が来た。
元理事。
顔色が悪い。
手には古い茶封筒を持っていた。
私はその封筒を見た。
角が潰れている。
何度も持ち直した跡がある。
「それ、見せてください。」
男は表の男を見た。
表の男は何も言わなかった。
何も言わないことで、渡せと言っていた。
茶封筒の中には、五年前の議事録が入っていた。
第五号議案。
理事辞任の件。
署名欄は空白だった。
私は言った。
「これは本人の準備じゃない。」
表の男が私を見た。
「老人が消える準備ではありません。」
私は空白の署名欄を指した。
「誰かが、老人を消す準備です。」
元理事は椅子に座り込んだ。
表の男は何も言わなかった。
その沈黙だけで、部屋の温度が下がった。
第6話 受付印
県庁の窓口は、朝が一番正直だ。
昼前になると、人は急ぐ。
午後になると、疲れる。
夕方になると、帰りたくなる。
朝はまだ、顔に余白がある。
私は八時二十分に県庁へ着いた。
裏の男は先に来ていた。
長袖。
紙袋。
火のついていない煙草。
「早いですね。」
「眠れなかった。」
「でしょうね。」
裏の男は私を見た。
「顔に出てますか。」
「いいえ。」
「じゃあ。」
「煙草です。」
男は指の煙草を見た。
「何本目?」
「四本目。」
「火は。」
「つけてない。」
「三日、寝てませんね。」
男は笑わなかった。
「二日半。」
「十分です。」
私は紙袋を受け取った。
コピー、委任状、印鑑証明、議事録。
全部そろっている。
裏の男は段取りがいい。
暴力の人ではない。
準備の人だ。
窓口が開いた。
担当者は三人。
真ん中の女性は、机の上が整っている。
右の男性は、すでにパソコン画面を開いている。
左の若い職員は、上司の席を何度も見ている。
私は左へ行った。
裏の男が小さく言った。
「そっちですか。」
「そっちです。」
「不安そうですよ。」
「だからです。」
私は軽い届出を先に出した。
本命ではない。
受け付けても、誰も困らない書類。
若い職員は書類を見た。
上司を見る。
上司はまだ電話中。
今だ。
「形式不備、ありますか。」
職員は慌てて見直した。
「いえ。」
「では、受付をお願いします。」
「確認を。」
「確認は受付後でもできます。」
若い職員はまた上司を見た。
上司はまだ電話中。
私は言った。
「ありがとうございます。朝から面倒なものを出してすみません。」
職員の顔が少しだけ緩んだ。
「いえ。」
彼は受付印を持った。
押す。
乾いた音がした。
小さい。
だが、音は残った。
私は控えを受け取った。
裏の男が横で息を吐いた。
「通った。」
「通したんです。」
「先生。」
「はい。」
「やるな。」
短い。
それで十分だった。
県庁を出ると、裏の男が言った。
「信用されてるんじゃありません。安心されてるだけです。」
「誰が。」
「あの職員です。」
「安心させるのも仕事です。」
「俺と同じですね。」
「少し違います。」
「どう。」
「私は火をつけない煙草を持ちません。」
裏の男は少し笑った。
その時、私の携帯が鳴った。
表の男だった。
「押させられましたね。」
私は県庁の建物を振り返った。
「見ていたんですか。」
「いいえ。」
「では。」
「先生なら、そうすると思いました。」
電話は切れた。
私は控えの受付印を見た。
勝ったと思った。
だが、誰かに用意された勝ち方かもしれなかった。
その気持ち悪さだけが、手に残った。
第7話 事故でした
事故の知らせは、夕方に来た。
老人の元秘書が死んだ。
車の単独事故。
ガードレールに衝突。
病院に運ばれ、死亡確認。
表向きは、それだけだった。
テレビは短く伝えた。
ネットの記事は早かった。
早すぎた。
私は事務所のパソコンで、最初に出たコメントを読んだ。
表の男の陣営からだった。
「突然の訃報に接し、深い悲しみに堪えません。長年、地域と国政に尽くされた功績に心から敬意を表します」
きれいな文章だった。
きれいすぎた。
私は更新時刻を見た。
事故発生から十八分後。
十八分で、人はここまで整った悲しみを書けない。
書ける人間もいる。
だが、そういう人間の文章は、もっと冷たい。
これは、温かく見せるために準備された文章だった。
私は表の男に電話した。
出なかった。
裏の男に電話した。
出た。
「見ましたか。」
「見た。」
「煙草は。」
「持ってる。」
「火は。」
「つけてない。」
私は立ち上がった。
「行きます。」
「どこへ。」
「コメントを書いた人のところへ。」
「危ない。」
「まだ、危なくないです。」
「先生。」
「はい。」
「それ、だいたい危ない。」
電話は切れた。
コメントを書いたのは、表の男の事務所の広報担当だった。
若い女性。
髪を一つにまとめ、机の上に付箋が何枚も貼ってある。
私が訪ねると、彼女はすぐに表情を作った。
「先生、お待ちしていました。」
「待っていましたか。」
「いえ、言葉のあやです。」
「今の文章も、そうですか。」
彼女の顔が固まった。
私はプリントしたコメント文を置いた。
「読んでください。」
「何を。」
「自分で書いた文章です。」
「今ですか。」
「今です。」
彼女は紙を持った。
読み始める。
「突然の訃報に接し、深い悲しみに」
そこで声が詰まった。
私は黙っていた。
「堪えません。」
彼女は続きを読めなかった。
「事故のあとに書いた文章じゃありませんね。」
彼女は紙を置いた。
「テンプレートです。」
「誰のための。」
「いろんな場合に。」
「事故の前に、名前は入っていましたか。」
彼女は答えなかった。
私は待った。
待つのも仕事だ。
「入っていました。」
「誰が入れました。」
「私です。」
「誰に言われて。」
彼女はドアの方を見た。
廊下に誰かいる。
私は振り返らなかった。
「言わなくていいです。」
彼女が驚いた顔をした。
「ただ、これだけ確認します。あなたは、事故が起きる前に、その人が死ぬかもしれないと知っていた。」
「知りません。」
「では、なぜ名前を入れた。」
彼女は小さく言った。
「準備だと。」
「誰の。」
「先生。」
彼女は泣かなかった。
泣く余裕もない顔だった。
「私は、仕事をしただけです。」
「はい。」
「悪いことをしたんですか。」
「分かりません。」
「分からない?」
「分からないことを、分かった顔で言う人の方が危ない。」
私は紙を畳んだ。
「ありがとうございます。」
彼女は顔を上げた。
「何がですか。」
「詰まってくれたので。」
それで十分だった。
廊下へ出ると、表の男が立っていた。
「困ったな。」
それだけだった。
私は言った。
「作成者名、あなたに近いですね。」
表の男は笑わなかった。
「近いです。」
「事故でしたか。」
男は少しだけ目を伏せた。
「事故でした。」
その言い方で、事故ではないと分かった。
第8話 火のつかない煙草
裏の男は、私の事務所にいた。
連絡していない。
勝手に来ていた。
応接の椅子に座り、煙草を一本持っている。
火はついていない。
灰皿もない。
「鍵、閉めていましたよね。」
「はい。」
「どうやって。」
「古い鍵です。」
「そこは説明になっていません。」
「すみません。」
謝り方が軽い。
本気で悪いと思っていない。
私は向かいに座った。
男の前には、缶コーヒーが二本あった。
どちらも開いている。
どちらも半分だけ残っている。
一本でよかったはずだ。
眠れない人間は、同じものを途中で捨てる。
新しいものを開ける。
でも、飲み切れない。
男の袖口はいつもより深かった。
左手がほとんど見えない。
右手で煙草を転がしている。
指先が少しだけ震えていた。
「今日は帰ってください。」
男は私を見た。
「仕事です。」
「違います。」
「先生。」
「三日寝ていない人の話は、だいたい悪い方向へ行きます。」
「二日半。」
「前にも聞きました。」
男は少し笑った。
「顔に出てますか。」
「出ていません。」
「じゃあ。」
「煙草。缶コーヒー。袖。あと、靴。」
男は足元を見た。
革靴のかかとに、黒い泥がついていた。
「どこか、土の場所に行きましたね。」
「墓です。」
短い答えだった。
「誰の。」
「まだ、墓じゃない。」
私は黙った。
男は煙草を箱に戻した。
「あの人、事故じゃありません。」
「でしょうね。」
「でも、事故です。」
「書類上は。」
「はい。」
男は初めて、肩を落とした。
ほんの少し。
それでも分かった。
「待ってくれている人には、会いましたか。」
「会ってません。」
「なぜ。」
「この顔を見せたくない。」
「顔に出ていません。」
「先生には出てるんでしょう。」
「私は仕事です。」
「あの人は違う。」
それだけで、十分だった。
男は優しい。
優しさの使い方を知っている。
計算もする。
でも、全部が計算ではない。
だから面倒だ。
「帰ってください。」
「無理です。」
「なぜ。」
「俺も、消える。」
私は男を見た。
「誰が決めました。」
「俺です。」
「本当に?」
男は答えなかった。
私は机の上の十円玉を出した。
第一話の夜、彼が置いていったものだ。
「これ。」
男の目が変わった。
「まだ持っていたんですか。」
「預かっていました。」
「捨てていい。」
「捨てません。」
私は十円玉を机に置いた。
「高校生の時、これで表に行くか裏に行くか決めたと言いましたね。」
「はい。」
「もう一度決めますか。」
男は笑った。
疲れた笑いだった。
「子どもじゃない。」
「大人の方が、たまに雑に決めます。」
男は十円玉を見た。
手を伸ばさない。
「悪い。」
「何が。」
「巻き込んだ。」
「仕事です。」
「違う。」
男は立ち上がった。
「帰る。」
「それがいい。」
「分かった。」
短い。
でも、その三つだけで、人間が少し戻った。
玄関で、男は振り返らずに言った。
「先生。」
「はい。」
「あの人に会ったら、怒らないでください。」
「誰に。」
「表の男です。」
「なぜ。」
男は少し黙った。
「あいつ、怒られ慣れてない。」
そう言って出ていった。
外は晴れていた。
それでも、男の長袖だけが夜みたいに見えた。
第9話 渡さない手紙
表の男は、夜に来た。
事務所ではなく、近くのファミレスだった。
国道沿い。
ドリンクバー。
隣の席では、高校生がポテトを分けていた。
政治家が来る場所ではない。
だから、来たのだろう。
男は帽子をかぶっていた。
似合っていなかった。
「変装ですか。」
「ただの帽子です。」
「変装に向いていません。」
「妻にも言われました。」
男は笑った。
少しだけ、本当の笑いだった。
席に座ると、封筒を出した。
白い封筒。
封はされていない。
折り目が二つ。
何度も出して、戻した跡がある。
私は触らなかった。
「渡す気、ないでしょう。」
男の手が止まった。
「まだ読んでいません。」
「読む前に分かります。」
「なぜ。」
「封がない。折り目が多い。持ってきた時間が遅い。」
男は黙った。
「本当に渡したい手紙は、昼に持ってきます。夜に持ってくる手紙は、捨てられない手紙です。」
男は少し笑った。
「困ったな。」
その一言で、政治家の顔が外れた。
ただの、疲れた男だった。
「あいつに渡してください。」
「自分で渡せばいい。」
「受け取りません。」
「でしょうね。」
「ひどい。」
「仕事です。」
男はドリンクバーの紙コップを見た。
中身は水だった。
コーヒーでも、茶でもない。
水。
考える人間は、時々味を捨てる。
「何と書いたんですか。」
「もう、裏にいなくていい。」
「それだけ?」
「それだけです。」
「嘘ですね。」
男は私を見た。
「先生。」
「はい。」
「嫌な人ですね。」
「最近、流行っています。」
男は封筒を指で押した。
「本当は、眠ってほしいと書きました。」
私は黙った。
「あいつは、眠らない。昔からそうです。自分が眠らなければ、誰かを守れると思っている。」
「あなたも同じです。」
「私は寝ます。」
「本当に?」
男は苦笑した。
「困ったな。」
二度目だった。
一度目より、ずっと弱かった。
「大義の話はしないんですか。」
私が聞くと、男は首を振った。
「今日は、しません。」
「なぜ。」
「先生が嫌がる。」
「正解です。」
男は笑った。
「私は国を変えたいと思っていました。」
「はい。」
「今も思っています。」
「はい。」
「でも。」
そこで止まった。
私は待った。
「あいつが眠れない国なら、意味がない。」
それだけでよかった。
国家論はいらない。
大義もいらない。
一人の人間が眠れるかどうか。
そこまで小さくなった時、初めて言葉は本当になる。
「あなたは、あの人の前だけ裏にいる。」
男は黙った。
ファミレスの奥で、皿の音がした。
高校生が笑っている。
男は封筒を私に差し出した。
私は受け取らなかった。
「渡しません。」
「なぜ。」
「あなたの仕事です。」
「先生。」
「はい。」
「厳しい。」
「仕事です。」
男は封筒を戻した。
少しだけ、ほっとした顔をした。
渡してほしかったのではない。
渡さなくていい理由がほしかったのだ。
会計の時、男が払おうとした。
私は自分の分を出した。
「割り勘で。」
「政治家に払わせないんですか。」
「あとで貸しになりそうなので。」
男は笑った。
「先生は、政治家に向いていない。」
「ありがとうございます。」
「褒めていません。」
「知っています。」
外に出ると、表の男は帽子を取り、夜の空気を吸った。
「あいつに会います。」
「はい。」
「手紙は。」
「持っていってください。」
男は封筒を上着の内ポケットにしまった。
その仕草だけは、政治家ではなかった。
大事なものをなくさないようにする、普通の人の仕草だった。
第10話 ありがとうございます
最後の書類は、薄かった。
たった一枚。
だが、重かった。
老人が消したかった過去を、行政の記録に残すための届出。
誰かを逮捕する紙ではない。
誰かを裁く紙でもない。
ただ、そこにあったことを、なかったことにさせない紙だった。
私は朝、県庁へ向かった。
表の男はいなかった。
裏の男もいなかった。
一人で行くべきだと思った。
県庁の入口で、老人が待っていた。
灰色のカーディガン。
杖はない。
秘書もいない。
ただ、湯呑みの代わりに、小さな水筒を持っていた。
「長澤先生。」
老人が言った。
今まで私は返事をしなかった。
名前を呼ばれると動かされる。
そう言われていた。
実際、部屋の空気はいつも変わった。
だが、この朝は違った。
老人の声は、支配するための声ではなかった。
確かめる声だった。
私は一拍置いた。
「はい。」
老人は笑わなかった。
ただ、水筒の蓋を開け、茶を飲んだ。
それだけだった。
「返事をしたな。」
「しました。」
「動くか。」
「自分で。」
老人はうなずいた。
「返す時だ。」
「誰に。」
老人は答えなかった。
茶を飲む。
黙る。
それで十分だった。
私は窓口へ向かった。
担当者は昨日と違う人だった。
中年の男性。
机の上に書類が積まれている。
忙しい顔をしていた。
忙しい顔の人間は、こちらが急ぐと閉じる。
私は急がなかった。
「おはようございます。」
「はい。」
「届出です。」
職員は紙を見た。
眉が動いた。
「確認します。」
「お願いします。」
老人は少し離れた場所で待っていた。
茶を飲んでいる。
誰も老人だと気づいていない。
気づかないふりをしているのかもしれない。
どちらでもいい。
職員が戻ってきた。
「一点、確認が。」
「はい。」
「こちら、本人の意思確認は。」
私は老人を見た。
老人は近づいてきた。
職員の前に立つ。
「私だ。」
それだけ。
職員の顔が変わった。
名前を知っている顔だった。
「あ、先生。」
老人は何も言わなかった。
茶を飲む。
職員は慌てて書類を見る。
私は言った。
「形式不備はありますか。」
職員は首を振った。
「ありません。」
「では、受付をお願いします。」
職員は受付印を持った。
その瞬間、老人が私を見た。
何も言わない。
私はうなずかなかった。
頭も下げなかった。
ただ、見返した。
印が押された。
乾いた音。
小さい。
だが、残る音だった。
法は残る。
人は去る。
老人は控えを見なかった。
「先生。」
「はい。」
「世話になった。」
「仕事です。」
老人は茶を飲んだ。
それから背を向けた。
廊下の向こうへ歩いていく。
誰も止めない。
誰も声をかけない。
老人は消えた。
社会からではない。
私の目の前から、ただ一人の年寄りとして去った。
表の男から電話が来たのは、その日の夕方だった。
「終わりましたか。」
「終わりました。」
「あの人は。」
「茶を飲んでいました。」
「そうですか。」
それだけだった。
裏の男からは、短いメッセージが来た。
「分かった。」
それだけ。
私はそれを見て、少し笑った。
数日後、事務所に相談者が来た。
五十代の女性。
手には茶封筒。
椅子に座る前から、封筒の角を何度も押さえている。
困っている。
まだ、自分では認めていない。
私は相談票を出した。
女性がペンを取る。
名前を書こうとした。
私は止めた。
「その前に。」
女性が顔を上げる。
「ありがとうございます。」
「まだ何も話してません。」
「来てくださったので。」
女性は少しだけ笑った。
ほんの少し。
それでよかった。
私は相談票を指差した。
「まず、お名前をお願いします。」
(了)