先生、人が消えます。

北関東の行政書士事務所に、深夜、一本の電話がかかってくる。「先生。人が消えます」。訪ねてきた男は、名前を言わず、料金別納の白い封筒だけを置く。中には、誰もが知る大物政治家の名前があった。男は裏にいる。もう一人、表にいる男がいる。そして老人は、名前を呼ぶだけで人を動かす。行政書士・長澤は、封筒、書類、小物、沈黙、人の癖から背景を読み、法の内側で勝ち方を探していく。

第1話「長澤先生でしょうか」

夜の一時を過ぎると、行政書士事務所の電話は鳴らない。

昼間はよく鳴る。

相続。離婚。会社設立。農地転用。

人は困ると、最後には紙のところへ来る。

私はコピー機の主電源を落とし、応接テーブルを拭いた。

缶コーヒーの輪染み。ボールペンの跡。誰かが座った後に、ほんの少しだけずれた椅子。

書類より先に、そういうものを見る癖がある。

仕事柄だ。

携帯が震えた。

知らない番号だった。

私は出た。

「長澤先生でしょうか。」

男の声だった。

低い。

焦っていない。

こちらが電話に出ることを、最初から知っていたような声だった。

「そうですが。」

男は言った。

「先生。人が消えます。」

私は少し笑った。

「それは警察ですね。」

男は否定しなかった。

肯定もしなかった。

ただ、一言だけ返した。

「先生の仕事です。」

私は時計を見た。

午前一時十三分。

「内容によります。」

「人がいなくなった後の書類を作っていただきたいんです。」

私は机の上のメモ帳を引き寄せた。

相手の話は最後まで聞く。

途中で結論を出さない。

嘘をつく人間は、最後の一言で呼吸が変わる。

この男は変わらなかった。

「相続ですか。」

「違います。」

「では、ご本人は亡くなられた?」

「まだ生きています。でも、社会から消えます。」

私はペンを止めた。

この仕事を二十年以上やっていると、聞かなかったことにできる話と、聞いた瞬間から人生のどこかに残る話がある。

これは後者だった。

「どちらにいらっしゃいますか。」

「先生の事務所の前です。」

窓の外を見た。

雨だった。

駐車場の隅に、黒いセダンが一台停まっていた。

エンジンは切れている。

街灯に照らされた雨粒だけが、車体の上で静かに光っていた。

私は玄関の鍵を開けた。

男は傘を持っていなかった。

革靴だけが濡れている。

コートは乾いている。

どこかで雨宿りをしてから歩いてきた人間の濡れ方だった。

「遅くにすみません。」

男は頭を下げた。

派手なものはない。

時間を裏切らない人の時計だった。

私は応接へ通した。

缶コーヒーを一本差し出す。

男は受け取らない。

代わりに煙草を一本取り出した。

火はつけない。

指先で静かに転がしている。

「ここは禁煙です。」

「でしょうね。」

男は笑った。

自然な笑いだった。

ただし、本音ではない。

人を安心させるために作られた笑いだった。

私は相談票を差し出した。

「お名前を。」

男はペンを取らなかった。

「今は言えません。」

「それでは仕事になりません。」

「先生は、名前が必要ですか。」

「仕事には必要です。」

男は私を見た。

目を逸らさない。

私も逸らさない。

十秒。

二十秒。

普通の人間なら、たいてい先に視線を切る。

照れくさくなる。

居心地が悪くなる。

この男は切らなかった。

珍しい。

男は鞄から白い封筒を出し、机の上へ置いた。

「中に名前があります。」

私は封筒を見た。

白い封筒。

左上に料金別納。

宛名はない。

手書きでもない。

差出人もない。

一見、何の変哲もない。

私は封筒を持ち上げた。

軽い。

もう一度見る。

分からない。

男が少しだけ口元を緩めた。

「難しかったですね。」

その言い方は、失礼ではなかった。

むしろ丁寧だった。

だから余計に、少し腹が立った。

私は封筒を置いた。

分からない時、人は書類を見続ける。

でも、答えはたいてい書類の上にはない。

私は封筒から目を離した。

男を見た。

煙草。

相談票。

缶コーヒー。

革靴。

濡れていないコート。

封筒。

全部を一枚の絵として見た。

あ。

「あなた。」

男の指が止まった。

「この封筒を作った人ではありませんね。」

男は何も言わなかった。

「料金別納は左上です。これは大量に郵便を出す組織が使う封筒です。役所、議員事務所、大きな会社。少なくとも、個人が夜中に一通だけ持ってくるものではない。」

私は封筒を机に戻した。

「でも、あなたはその組織の人間じゃない。」

「なぜです。」

「封筒の持ち方です。」

男の目が、わずかに細くなった。

「毎日こういう封筒を扱う人間は、封筒を持った時に角を気にしません。あなたは、机に置く時も、持ち上げる時も、角を潰さないようにしていた。」

私は男の指を見た。

「届ける人の持ち方です。」

沈黙が落ちた。

雨の音だけが聞こえた。

男は、初めて本当に笑った。

「安心しました。」

私は聞いた。

「何がです。」

「先生を訪ねて、正解でした。」

男は封筒をこちらへ押した。

「開けてください。」

私は封筒を開けた。

中には一枚の紙が入っていた。

名前だけが書かれている。

私は、その名前を見て息を止めた。

テレビで何度も見た名前だった。

新聞でも見る。

選挙のたびに見る。

地元では神様のように言われ、国会では影のように恐れられている老人。

誰でも知っている政治家の名前だった。

私は紙を机に戻した。

「これは、冗談で済む名前ではありません。」

「冗談ではありません。」

「この人は生きていますね。」

「はい。」

「では、なぜ“いなくなった後”の書類が必要なんです。」

男は煙草を箱に戻した。

「その人は、もう長く表には残れません。」

「病気ですか。」

「いいえ。」

「事件ですか。」

男は答えなかった。

答えないことが、答えだった。

私は封筒を閉じた。

「お引き取りください。」

男は動かなかった。

「これは犯罪の相談です。」

「まだ何も起きていません。」

「起きる前だから悪いんです。」

男はうなずいた。

「先生は、そう言うと思っていました。」

「では、なぜ来たんです。」

「止めてほしいわけではありません。」

「なら、なおさら帰ってください。」

「先生には、見ていてほしいんです。」

「見ているだけなら、仕事ではありません。」

「いずれ、先生の仕事になります。」

男はポケットから古い十円玉を出した。

縁が少し削れ、色が鈍くなっている。

机の上に置く。

「高校生の時、これ一枚で人生を決めました。」

「何をです。」

「表に行くか、裏に行くか。」

私は十円玉を見た。

触らなかった。

「あなたは裏を引いた。」

男は少しだけ笑った。

「なぜ分かります。」

「今、表にいる人間は、そんな言い方をしません。」

男は黙った。

私は続けた。

「あなたには、表にいる誰かがいる。」

その時、男の携帯が震えた。

男は画面を見た。

一瞬だけ、顔が緩んだ。

それは計算ではなかった。

「出なくていいんですか。」

「いいんです。」

「待たせている人ですか。」

男は少し考えてから言った。

「待たせているんじゃない。待ってくれているんです。」

その一言で、この男が私の知らない夜を生きている人間だと分かった。

私は封筒を机の上に置いたまま、立ち上がった。

「今日のところは、お帰りください。」

男も立ち上がった。

私は玄関まで送った。

ドアを開ける。

雨は小降りになっていた。

男が外へ出る。

私は自然に言った。

「ありがとうございました。」

男の足が止まった。

振り返らない。

一秒。

二秒。

「こちらこそ。」

静かな声だった。

それから、男はもう一歩だけ進み、立ち止まった。

「先生。」

「はい。」

「次は、表の人間に会ってください。」

「表の人間。」

「私とは正反対です。」

私は黙っていた。

「明るい場所にいます。テレビにも出る。人前で笑い、握手をし、国の未来を語る。」

男は少し笑った。

「でも、私より厄介です。」

「警察ですか。」

「いいえ。」

男は初めて、こちらを振り返った。

「政治家です。」

ドアが閉まった。

私はしばらく玄関に立っていた。

机の上には、封筒と十円玉が残っている。

まだ何も起きていない。

誰も死んでいない。

誰も消えていない。

それでも、もう始まっていた。

私は封筒を見た。

十円玉を見た。

そして、さっき男が言った言葉を思い出した。

人が消えます。

その夜。

消え始めていたのは、

あの老人じゃない。

私だった。

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