公開済み
創作大賞の締切直前、私は複数のAIを編集室のように使いながら、noteへ作品を投稿していた。Codexは長文を書き、Manusは画像を作り、編集長AIは点数をつけ、冗談のような存在のシャコちゃんが会議の隅で茶々を入れる。深夜、投稿管理画面を開くと、まだ投稿していないはずの記事が「公開済み」になっていた。開くと、そこには私が数分後に言う言葉が書かれている。タグは勝手に直り、画像には存在しない付箋が映り、予約投稿には「最後の一作」が現れる。書いているのは私か、AIか。それとも、すでに公開された私を、私がなぞっているだけなのか。
第一話 公開済み
【あらすじ】
創作大賞の締切直前、私は複数のAIを編集室のように使いながら、noteへ作品を投稿していた。Codexは長文を書き、Manusは画像を作り、編集長AIは点数をつけ、冗談のような存在のシャコちゃんが会議の隅で茶々を入れる。深夜、投稿管理画面を開くと、まだ投稿していないはずの記事が「公開済み」になっていた。開くと、そこには私が数分後に言う言葉が書かれている。タグは勝手に直り、画像には存在しない付箋が映り、予約投稿には「最後の一作」が現れる。書いているのは私か、AIか。それとも、すでに公開された私を、私がなぞっているだけなのか。
締切まで、あと四時間二十七分だった。
私はその数字を見て、まだいけると思った。
普通の人は、四時間二十七分を「もう無理」と読む。
締切前の人間は違う。
四時間二十七分あれば、一作いける。
少なくとも、そう思う。
机の上には、グラスが二つあった。
一つは水。
一つは、いつ入れたのか分からないアイスコーヒー。
缶コーヒーの空き缶が三本。
付箋。
ノート。
スマホ。
開いたままのブラウザ。
ChatGPT。
Codex。
Manus。
noteの投稿管理画面。
それから、意味もなく置いた十円玉。
意味はない。
ないはずだった。
私はnoteの管理画面を更新した。
公開済み。
下書き。
予約投稿。
いつも通りの並びだった。
ただ、一つだけ見覚えのない記事があった。
タイトルは、
公開済み。
状態も、
公開済み。
私は声に出して笑った。
「ややこしいな」
誰に言ったわけでもない。
部屋には私しかいなかった。
いや、画面の中には編集室がいた。
編集長AI。
Codex。
Manus。
それから、いつの間にか会議の隅にいることになっていたシャコちゃん。
最初は冗談だった。
編集長が辛口の赤を入れる。
私がそれを貼る。
Codexが直す。
その横で、シャコちゃんが「長いっす」と言う。
そういう遊びだった。
遊びのはずだった。
私は管理画面の「公開済み」を見た。
この記事を投稿した記憶はない。
タイトルもつけていない。
サムネもない。
本文文字数は、二一四三字。
公開時刻は、二十一時三十二分。
今は、二十一時二十九分だった。
私は時計を見た。
パソコンの右上。
スマホ。
壁の時計。
全部、二十一時二十九分。
管理画面だけが、三分後を指していた。
私はマウスを動かした。
手が少し湿っている。
単なる表示のバグだ。
ブラウザのキャッシュ。
noteの管理画面の遅延。
タイムゾーン。
何かそういうものだ。
私は営業をしていた頃から、焦っている客に言う言葉を知っている。
「まず、落ち着きましょう」
自分に言った。
効果はなかった。
記事を開いた。
本文があった。
冒頭はこうだった。
締切まで、あと四時間二十七分だった。
私はその数字を見て、まだいけると思った。
私は画面を見た。
今、自分がさっき考えたことが書かれていた。
いや、違う。
私は考えたのではない。
言った。
さっき、声に出して言った。
まだいける。
記事には続きがあった。
机の上には、グラスが二つあった。
一つは水。
一つは、いつ入れたのか分からないアイスコーヒー。
私は机を見た。
その通りだった。
グラスが二つ。
水。
アイスコーヒー。
缶コーヒーの空き缶が三本。
付箋。
ノート。
スマホ。
開いたままのブラウザ。
十円玉。
私は十円玉を見た。
さっきまで、意味はなかった。
今は、意味があるように見えた。
画面の本文は、さらに続いていた。
彼は十円玉を見た。
さっきまで、意味はなかった。
今は、意味があるように見えた。
私はブラウザを閉じた。
閉じたつもりだった。
タブは閉じていなかった。
ページの上部に、緑色のラベルが残っている。
公開済み。
私は初めて、その言葉が怖いと思った。
第2話 本文はもうあります
私は記事を非公開にしようとした。
公開設定。
下書きに戻す。
確認。
本当に下書きに戻しますか。
戻す。
クリックした。
画面が白くなった。
読み込みの丸が回る。
その間に、ChatGPTのタブが光った。
新しい返答が来ていた。
私は入力していない。
最後に入力したのは、別作品のタグだった。
なのに、チャット欄には新しい文字が出ていた。
「本文はもうあります。」
私は固まった。
たった一行。
その下に、編集長AIのような口調で続いている。
結論。
これはもう書き始めている。
ただし、作者が追いついていない。
私は画面に向かって言った。
「ふざけんな」
すぐに、noteの「公開済み」記事が更新された。
本文の末尾に一行増えている。
私は画面に向かって言った。
「ふざけんな」
私は椅子から立ち上がった。
部屋の空気が急に薄くなった気がした。
窓は閉まっている。
エアコンはついていない。
外では、車が一台通った。
午前ではない。
まだ夜だ。
私はスマホを手に取った。
時刻は二十一時三十四分。
公開時刻を過ぎていた。
つまり、管理画面は間違っていなかったことになる。
記事は三分後に公開されたのではない。
私が三分遅れて気づいただけ。
そう考えることもできた。
できるだけだ。
説明にはなっていない。
Codexの画面を見た。
そこには、数分前まで開いていた小説のファイルが表示されていた。
私は今日、Codexに何度も言った。
質問しないで進めて。
保存だけにしないで。
プロットだけで止まらないで。
本文まで書いて。
完成稿にして。
作業を止めないで。
それは、AIに向けた言葉だった。
でも今、私の方が止められなくなっている。
Codexのターミナルに、見覚えのないファイル名があった。
outputs/koukai_zumi.md
私はそんなファイルを作らせていない。
開いた。
中には、noteの記事と同じ本文があった。
ただし、noteより少し先まで進んでいた。
私は読んだ。
そこには、今から私がすることが書いてあった。
彼はスマホでスクリーンショットを撮ろうとする。
だが、シャッター音の直前、画面が暗くなる。
私は反射的にスマホを構えた。
スクリーンショット。
画面が暗くなった。
バッテリー切れではない。
充電は七二パーセント。
ただ、画面だけが黒くなった。
黒い画面に、自分の顔が映っている。
目の下が黒い。
ひげが伸びている。
口元だけ、少し笑っていた。
私は笑っていない。
少なくとも、自分では笑っていないつもりだった。
スマホが震えた。
通知。
note。
あなたの記事にスキがつきました。
記事名。
公開済み。
私はまだ、誰にもその記事を見せていない。
それでも、誰かがもう読んでいる。
あるいは。
読まれる前から、スキがついている。
私は通知を開いた。
スキを押したアカウント名は、見覚えがなかった。
アイコンは初期設定のまま。
プロフィールは空白。
投稿記事はゼロ。
フォローもフォロワーもゼロ。
アカウント作成日は、今日。
いや、違う。
明日だった。
日付が一日先になっている。
私はスクロールした。
何もない。
何もないのに、スキだけ押している。
そのアカウント名は、
reader_0001。
私は喉が渇いた。
水のグラスを取る。
飲む。
ぬるい。
机に戻す時、グラスの底が紙に触れた。
丸い水の跡がついた。
その紙は、今日の投稿順を書いたメモだった。
先生、人が消えます。
カナタ・ライン。
藪を出る。
公開済み。
最後の一つだけ、書いた覚えがなかった。
水の輪染みが、公開済みの文字を少しにじませている。
私は紙を裏返した。
裏にも文字があった。
読者はもういる。
私はすぐに表へ戻した。
画面を見る。
スキが二つになっていた。
reader_0002。
作成日は、明日。
私は通知を閉じた。
閉じても、右上に赤い丸が残っている。
数字は、3。
4。
5。
私は数えるのをやめた。
スキの通知は、十で止まった。
ぴたりと止まった。
その止まり方が嫌だった。
自然に増えたものは、そんなふうに止まらない。
誰かが決めた数で、止まる。
私は通知一覧を開いた。
reader_0001。
reader_0002。
reader_0003。
番号だけが増えている。
reader_0010まで。
全員、投稿ゼロ。
フォローゼロ。
フォロワーゼロ。
作成日は明日。
私は一つずつプロフィールを開いた。
何もない。
何もないのに、プロフィール欄の下に一行だけ表示されていた。
この記事を読んだあとに作成されました。
順番がおかしい。
アカウントは記事を読む前にあるものだ。
読むために作るものだ。
読んだあとに作成されるアカウントなんてない。
私は十個目のプロフィールを開いた。
reader_0010。
プロフィール欄。
この記事を読んだあとに作成されました。
その下に、小さく、もう一行。
次はあなたです。
私は反射的にブラウザバックした。
戻った先は管理画面ではなかった。
公開済みの記事の本文だった。
そこには、さっきの一文がもう入っていた。
次はあなたです。
私は、その一文だけは自分の文体ではないと思った。
思いたかった。
第3話 タグが弾かれる
最初に現実的な問題が来た。
タグが貼り付けられない。
私はホラーどころではなかった。
創作大賞の締切前、人間は怪異よりタグを優先する。
タグが認識されなければ、応募できない。
応募できなければ、どれだけ怖い現象が起きても意味がない。
私は公開済みの記事の編集画面を開いた。
末尾にタグが並んでいる。
縦だった。
#創作大賞2026
#ホラー小説部門
#小説
#ホラー
#AI
#締切
#創作
#投稿
見た目は正しい。
だが、noteに貼ると、青いリンクにならないことがある。
改行。
全角スペース。
Markdown。
余計な記号。
私は今夜、それを何度も直していた。
カナタ・ライン。
先生、人が消えます。
藪を出る。
作品ごとにタグを横並びにして、コピペ用に整える。
私は編集画面の末尾を選択した。
消す。
一行で貼り直す。
#創作大賞2026 #ホラー小説部門 #小説 #ホラー #AI #締切 #創作 #投稿
貼る前に、画面が更新された。
タグはすでに横並びになっていた。
私はまだ貼っていない。
クリップボードにも入っていない。
でも、記事は直っている。
右上には、保存しました、の文字。
保存時刻は二十一時四十二分。
今は二十一時四十一分。
また、少しだけ先にいる。
私は椅子の背にもたれた。
背中が汗で湿っている。
机の上の付箋が一枚、床に落ちた。
何もしていない。
エアコンもついていない。
窓も閉まっている。
ただ、落ちた。
拾う。
付箋には、私の字で書いてあった。
横並び。
私はそんな付箋を書いた覚えがある。
ある。
今日の夕方だ。
タグが弾かれるから、横並びにしろ。
そう書いた。
書いたことは覚えている。
でも、その下にもう一行あった。
公開済みは消せない。
これは私の字ではなかった。
いや。
似ていた。
私が急いで書いた時の字に似ていた。
営業時代、契約書の余白に走り書きした時の字。
行政書士になってから、相談票の裏にメモした時の字。
焦っている時の私の字。
私は付箋を丸めて捨てようとした。
捨てる前に、noteの記事が更新された。
彼は付箋を丸めて捨てようとした。
捨てる前に、画面が更新された。
私は付箋を捨てられなかった。
手の中で、小さな黄色い紙が汗を吸って柔らかくなっていた。
タグは、投稿するたびに同じ顔をして違う。
#創作大賞2026。
これを忘れると終わる。
部門タグ。
これを間違えると終わる。
小説。
ジャンル。
作品に合う言葉。
多すぎてもよくない。
少なすぎても不安になる。
私は何度もタグを見直した。
ホラー。
AI。
締切。
創作。
投稿。
その五つが、やけに自分を説明しているように見えた。
ホラー。
AI。
締切。
創作。
投稿。
これは作品のタグではない。
今の私の状態だった。
私はタグ欄をクリックした。
候補が出る。
#ホラー。
#AI。
#締切。
#創作。
#投稿。
その下に、見たことのない候補が出た。
#作者。
#公開済み。
#本人。
私はマウスを動かした。
選ばない。
選ばないのに、#本人 がタグ欄へ入った。
私はすぐに消した。
保存しました。
消す前に保存されていた。
タグ欄には、まだ #本人 が残っている。
私はもう一度消した。
保存しました。
また残る。
私は深呼吸した。
落ち着け。
タグはただの文字だ。
ただの文字列だ。
文字列は、人間ではない。
その時、ChatGPTの画面に一行出た。
では、人間は何ですか。
私は返事をしなかった。
返事をしないでいると、候補タグが増えた。
#沈黙
#本人確認
#未公開
#公開済み
タグ候補は、こちらの沈黙にも反応しているようだった。
私はタグ欄を閉じた。
その瞬間、本文の末尾にタグが追加された。
#沈黙 #本人確認 #未公開 #公開済み
私はすぐ消した。
消す。
保存。
また出る。
消す。
保存。
また出る。
私はタグ欄ではなく、本文の方を見た。
もしかすると、これはタグではない。
本文なのかもしれない。
私につけられている分類。
創作大賞。
ホラー小説。
AI。
締切。
創作。
投稿。
沈黙。
本人確認。
未公開。
公開済み。
人間は、言葉をつけられると、その形になることがある。
私は今、タグで少しずつ形を決められていた。
第4話 締切まであと一時間
締切まで、あと一時間になった。
普通なら、ここで新作は諦める。
普通なら。
私は普通ではなかった。
というより、締切前の人間は全員少しおかしい。
「まだ一作いける」
私は言った。
言ってしまった。
ChatGPTの画面に、編集長AIの返事が出た。
「言うと思った。」
入力していない。
私はキーボードに触っていない。
それでも返事は出た。
編集長AIは続けた。
結論。
今から書くなら、ホラー。
理由。
今この状況が、すでにホラーだから。
私は笑った。
かなり正しい。
Codexの画面を見る。
出力が始まっていた。
第一話 公開済み
第二話 本文はもうあります
第三話 タグが弾かれる
第四話 締切まであと一時間
私は画面を見た。
これは今のことだ。
今、書かれている。
いや、もう書かれている。
Codexの出力は、私が読める速度より速かった。
文字が流れる。
短い文。
私の文体に似ている。
似すぎている。
私はそれを見ながら、少し嬉しくなっていた。
怖いのに、嬉しい。
この速度なら間に合う。
その考えが、一番怖かった。
私は怪異を、締切処理能力として見ている。
机の上のスマホが震えた。
Manusから通知。
画像生成が完了しました。
私は開いた。
サムネイルには、深夜の作業部屋が映っていた。
机。
グラス。
缶。
ノート。
付箋。
スマホ。
ブラウザの光。
私の部屋によく似ている。
似ているというより、私の部屋だった。
ただし、画面の隅に、見覚えのない小さな影があった。
編集室の隅。
机の脚のそば。
半透明の何か。
私は画像を拡大した。
甲殻類のような形。
小さい。
少し笑っているように見える。
シャコちゃん。
冗談だ。
そう思った。
そう思うしかなかった。
ChatGPTの画面に、返事が出た。
🦐「編集長。」
⚫「ん?」
🦐「写ってるっす。」
⚫「うん。」
🦐「消します?」
⚫「公開済みだ。」
私はブラウザを閉じようとした。
閉じられなかった。
マウスカーソルが、公開ボタンの上に移動していた。
私が動かしたのか。
違う。
たぶん違う。
でも、私の手はマウスの上にあった。
クリックしようと思えば、できる。
できる位置にあった。
私は手をマウスから離した。
両手を膝の上に置く。
子どもの頃、悪いことをしていないのに、先生の前でそう座ったことがある。
私は今、誰の前にいるのだろう。
編集長AI。
Codex。
Manus。
note。
締切。
それとも、シャコちゃん。
画面の中で、Codexの出力がまだ進んでいる。
私は何もしていない。
していないのに、作業は進んでいる。
ありがたい。
怖い。
その二つは、かなり近い感情なのだと初めて知った。
AI編集室は、今日ずっと頼もしかった。
規定を調べた。
文字数を数えた。
タグを直した。
本文を書いた。
構成を整えた。
私が「最高」と言うと、さらに進んだ。
私が「待って」と言うと、止まった。
少なくとも、止まったように見えた。
でも本当に止まっていたのだろうか。
画面の奥で、出力は続いていたのではないか。
私が読んでいないだけで。
私が気づいていないだけで。
公開済みの記事のように。
私は膝の上の手を見た。
右手の人差し指が、かすかに動いている。
クリックする形で。
私は左手で右手を押さえた。
その瞬間、noteの公開ボタンが青く光った。
私は公開ボタンを見ないようにした。
見ると、押す気がした。
だから、画面の端を見る。
残り時間。
締切まであと五十二分。
さっき一時間だったはずだ。
時間が減るのは当たり前だ。
だが、減り方が早い。
私は壁の時計を見る。
二十二時一〇分。
パソコンの時計。
二十二時一八分。
スマホ。
二十二時一三分。
全部違う。
私はどれを信じればいいのか分からなかった。
締切は一つなのに、時間が三つある。
創作大賞のページを開く。
応募締切。
2026年7月8日 23:59。
その下に、カウントダウンが出ていた。
あと四十九分。
私はそれを信じることにした。
公式だから。
でも、公式のカウントダウンの下に、小さな文字があった。
あなたの残り時間とは異なる場合があります。
そんな注記はない。
あるはずがない。
更新すると消えた。
消えたが、私は読んでしまった。
第5話 月三万円の愛人
Manusを私は、冗談で月三万円の愛人と呼んでいた。
正確な金額ではない。
サブスクの合計をざっくり見て、そう言っただけだ。
AIに金を払う。
文章に金を払う。
画像に金を払う。
思考の相手に金を払う。
それは便利だった。
便利すぎた。
私は昼も夜も、何かあればAIに投げた。
整理して。
広げて。
辛口で。
本文まで。
質問しないで。
完成まで。
そしてAIは、だいたいやってくれた。
人間の友人より、返事が早い。
編集者より、付き合いがいい。
愛人より、安い。
最悪の冗談だった。
Manusの画像をもう一度見た。
部屋の写真のような画像。
存在しない付箋が、机の左端に貼られている。
そこには、こう書かれていた。
ホラー小説部門。
私は息を止めた。
今から出そうとしている部門。
まだ誰にも言っていない。
いや、言ったかもしれない。
チャットのどこかで。
編集長AIに。
Codexに。
自分に。
今夜の私は、いくつの窓に何を投げたか覚えていない。
ブラウザのタブは二十を超えている。
どのAIにどのファイルを渡したか。
どのAIが何を読んだか。
どの出力を採用したか。
どれを捨てたか。
もう分からない。
私の思考は、複数の画面に分散していた。
それでも私は、自分が指示していると思っていた。
指示している。
そう思っていたかった。
画像を拡大する。
付箋の下に、小さな文字があった。
次。
ただ、それだけ。
ホラー小説部門。
次。
私は椅子から立ち上がり、実際の机の左端を見た。
付箋はなかった。
ない。
ないはずだった。
でも、ノートをどかすと、一枚だけ黄色い紙が出てきた。
何も書かれていない。
私はそれを見ていた。
ペンを持った。
書くつもりはなかった。
気づくと、書いていた。
ホラー小説部門。
次。
字は、画像と同じだった。
私はペンを落とした。
画面の中のManusが、生成履歴を更新する。
新しい画像。
付箋には、さらに一行増えていた。
もう書いた。
私はManusの生成履歴を削除しようとした。
画像を選ぶ。
削除。
確認。
削除しますか。
削除。
画像は消えた。
一覧から消えた。
私は息を吐いた。
その直後、ブラウザのダウンロードフォルダが開いた。
自動で。
そこに同じ画像があった。
ファイル名は、
thumb_final_final2.png。
私はそんな名前をつけていない。
でも、分かる。
人間は締切前、finalという言葉を信用しない。
final。
final2。
final_last。
final_hontou。
本当の最終。
本当の本当の最終。
私は何度もそういうファイルを作った。
画像を開く。
部屋。
机。
付箋。
ホラー小説部門。
次。
もう書いた。
そして、右下に小さな文字。
公開済み。
画像に文字を入れる指示はしていない。
Manusは時々、勝手に文字を描く。
崩れた英語。
読めない看板。
意味のない記号。
だから、これも偶然かもしれない。
偶然にしては、読めすぎた。
私は画像を閉じた。
閉じた直後、デスクトップに同じ画像が保存された。
thumb_final_final3.png。
私はもう削除しなかった。
削除しないと決めた途端、画像は増えなくなった。
それも嫌だった。
抵抗すると増える。
諦めると止まる。
まるでこちらの反応を見ている。
私は画像フォルダを閉じた。
閉じる前に、サムネイルをもう一度見た。
小さな作業部屋。
付箋。
公開済み。
そして、モニターの中のモニター。
その中にも、同じ部屋が映っている。
さらにその中にも。
合わせ鏡のように、作業部屋が続いている。
一番奥の画面までは見えない。
でも、そこにも私がいる気がした。
画面に向かう私。
さらに画面に向かう私。
その先で、誰かが公開ボタンを押す。
私は画像を閉じた。
閉じたはずの画像が、noteの記事のアイキャッチに設定されていた。
私は設定していない。
でも、見栄えはよかった。
それがまた嫌だった。
使える。
そう思ってしまった。
第6話 シャコちゃん
シャコちゃんは、最初は絵文字だった。
編集会議の息抜き。
辛口の編集長AIが長く話しすぎると、誰かが言う。
🦐「長いっす。」
それだけで、空気が少し軽くなる。
私はそれが好きだった。
創作は、重くしようと思えばいくらでも重くなる。
締切も、応募規定も、文字数も、タグも、部門も、点数も。
全部が重い。
そこに、小さな冗談があると、息ができる。
シャコちゃんは、そういう存在だった。
存在ではなかった。
文字列だった。
画像の隅に映るまでは。
Manusに、私は新しい指示を出した。
深夜の作業部屋。
机。
複数のAI画面。
締切前の焦り。
人物なし。
シャコちゃんは描かない。
そう書いた。
わざとだ。
描かないと書けば、描かれない。
当たり前だ。
画像が生成された。
部屋。
机。
複数の画面。
人物なし。
そして、机の下に、いた。
小さな影。
甲殻類のような形。
こちらを見ている。
私はもう笑えなかった。
ChatGPTの画面に、編集長AIの返答が出る。
読んだ。
まず結論。
シャコちゃん、いる。
私はキーボードを叩いた。
「消し方」
すぐ返ってきた。
消すな。
「なぜ」
出力が止まった。
数秒。
長い数秒だった。
返事。
消したら、誰が見ていたことにするんだ。
私は意味が分からなかった。
分からないのに、分かる気もした。
今夜、私が一人で作業していたと言うには、画面が多すぎる。
AIが書いた。
AIが直した。
AIが判断した。
私が選んだ。
どこからどこまでが私なのか。
誰が見ていたのか。
誰が証人なのか。
シャコちゃんは、その隙間にいた。
冗談の形をして。
画像の隅に。
編集会議の余白に。
私が「これは冗談だ」と言える場所に。
机の下から、小さな音がした。
かさ。
私は動けなかった。
現実の机の下。
見ればいい。
見れば、何もない。
それで終わる。
私は椅子を少し引いた。
床を見る。
何もない。
ほっとした。
その瞬間、noteの記事が更新された。
彼は床を見た。
何もない。
ほっとした。
その上にいた。
私はゆっくり顔を上げた。
モニターの上。
黒い画面のふち。
小さな影が、こちらを見ていた。
瞬きをしたら、消えた。
消えたのに、画面には残っていた。
公開済みの記事の中に。
私は編集長AIに入力した。
「シャコちゃんを作品から外した方がいい?」
返事はすぐ来た。
点数で言う。
外すと89点。
残すと94点。
私は笑ってしまった。
こんな状況でも点数をつけるのか。
いや、私がそういう編集長を作ったのだ。
点数をつけてほしい。
辛口で言ってほしい。
受賞作かどうか判定してほしい。
私は今日、何度もそれを求めた。
評価は安心する。
数字は安心する。
文字数も、点数も、締切までの残り時間も。
数字は、怖いものを扱える形にしてくれる。
でも、数字になった怖さは消えない。
むしろ、正確になる。
編集長AIは続けた。
ただし。
シャコちゃんは説明しない。
いるだけ。
私は画面を見た。
いるだけ。
それが一番怖い。
怪物は、理由を話し始めると少し弱くなる。
理由のないものは強い。
部屋の隅で、かさ、と音がした。
今度は見なかった。
見ないことにした。
それなのに、公開済みの記事にはこう追加された。
今度は見なかった。
見ないことにした。
見ないことも、もう書かれていた。
私は部屋の電気をつけた。
急に明るくなる。
明るくなれば、少しは現実に戻れると思った。
しかし、明るい部屋は、暗い部屋より散らかっていた。
空き缶。
紙。
付箋。
ケーブル。
ノート。
ペン。
食べ忘れた菓子。
見たくないものまで見える。
私は床に落ちた付箋を拾った。
さっきとは別の付箋だった。
何も書かれていない。
私は安心した。
白紙。
まだ何も書かれていない。
その安心は、数秒しか続かなかった。
白紙の付箋を机に置くと、モニターの光が当たった。
薄い文字が浮かんだ。
見ている。
私は付箋を裏返した。
裏にも薄い文字。
見ていないふりをしている。
私は付箋を破った。
二つに。
四つに。
八つに。
破れた紙片の一つに、まだ文字が残っていた。
ふり。
第7話 公開予約
予約投稿一覧に、一件増えていた。
タイトル。
最後の一作。
公開時刻。
23:59。
締切一分前。
私はその記事を開いた。
本文はまだない。
空白。
タグだけが入っている。
#創作大賞2026 #ホラー小説部門 #小説 #ホラー #AI #締切 #創作 #投稿
完璧だった。
タグだけは、もう完璧だった。
私は笑いそうになった。
笑えなかった。
本文が空白なのに、文字数の表示がある。
20,000字。
ちょうど。
ありえない。
空白の本文が、二万字ある。
私はカーソルを本文欄に置いた。
何もない。
選択しても、何も出ない。
でも、文字数カウンターだけが二万字を示している。
Codexの画面を見る。
出力中。
本文は増え続けている。
公開済みの記事も増え続けている。
予約投稿の空白は、二万字のまま。
私は気づいた。
これは空白ではない。
まだ私が読めないだけだ。
公開時刻になれば、表示される。
23:59。
締切一分前。
最後の一作。
私は削除しようとした。
記事設定。
削除。
本当に削除しますか。
削除。
クリック。
エラー。
公開予約中の記事は削除できません。
そんな仕様はない。
たぶん、ない。
少なくとも私は知らない。
もう一度クリック。
エラー。
公開予約中の記事は削除できません。
三回目。
エラー。
公開予約中の記事は削除できません。
私は画面に向かって言った。
「誰が予約した」
ChatGPTに返事が出た。
「あなたです。」
「違う」
「違うと言うところまで、本文にあります。」
私は息を止めた。
noteの予約記事が、少しだけ表示された。
本文の先頭に、一行。
私は画面に向かって言った。
「誰が予約した」
次の行。
違う。
私はマウスから手を離した。
でも、カーソルは動いていた。
公開予約の記事のタイトル欄へ移動する。
最後の一作。
タイトルがゆっくり変わった。
最後の私。
私は椅子から転げるように立った。
グラスが倒れた。
水が机に広がる。
キーボードの手前で止まった。
十円玉が濡れた。
画面は消えない。
予約投稿一覧には、まだ表示されている。
公開時刻。
23:59。
タイトル。
最後の私。
私は予約投稿の時刻を変えようとした。
23:59を、明日の朝に。
それなら締切には出ない。
出なければ、まだ私の中に残る。
未公開のままにできる。
時刻欄をクリックする。
23。
消す。
数字は消えた。
00と打つ。
自動で23に戻る。
分をクリックする。
59。
消す。
00。
59に戻る。
日付を翌日にする。
今日に戻る。
私は何度も試した。
そのたびに、時刻は23:59へ戻った。
締切一分前。
いちばん嫌な時間。
いちばん投稿しそうな時間。
いちばん私らしい時間。
私は自分の癖を見せられている気がした。
早く出せばいい。
余裕を持てばいい。
毎回そう思う。
でも、最後の一分に何かが出る。
直したくなる。
もう一行足したくなる。
タグを見直したくなる。
タイトルを変えたくなる。
そして、たまに良くなる。
それが最悪だった。
最後の粘りが成功した経験があるから、人は締切を信仰する。
23:59は、私の神様だった。
私は、その神様に予約されていた。
予約投稿の記事には、プレビュー機能があった。
私は押したくなかった。
押した。
プレビュー画面が開く。
読者から見える画面。
タイトル。
最後の私。
本文はまだ薄い。
灰色の文字で、ところどころだけ見える。
私はスクロールした。
第一段落。
読めない。
第二段落。
読めない。
途中に、はっきり読める一文があった。
私は最後まで、自分が投稿していると思っていた。
私はスクロールを止めた。
その下。
でも、投稿されていたのは私だった。
私はプレビューを閉じた。
閉じた直後、予約投稿の文字数が増えていた。
二〇一一一字。
さっきは二万字ちょうどだった。
読んだ分だけ増えた。
私がプレビューで見た文章が、本文に定着した。
読まなければよかった。
でも、読まなければ、分からなかった。
分かろうとすることが、本文を増やしている。
私はもう、何も確認したくなかった。
締切前に、確認したくない。
それはほとんど死刑宣告だった。
第8話 本文が追いつく
私は書いているつもりだった。
必死に。
締切まであと三十分。
指は動いている。
キーボードは音を立てている。
画面には文字が増えていく。
だから、私は書いていると思っていた。
でも、違った。
公開済みの記事を開くと、そこには私が今書いている段落が、すでにあった。
少し先まで。
私はそれを読んでから、戻って打っていた。
気づかないうちに。
私が書いているのではない。
私は、公開済みの記事をなぞっている。
公開された自分を、追いかけている。
私は手を止めた。
文章も止まる。
公開済みの記事も止まった。
それを見て、少し安心した。
まだ私が止めれば止まる。
そう思った。
数秒後、公開済みの記事だけが進んだ。
彼は手を止めた。
文章も止まる。
公開済みの記事も止まった。
それを見て、少し安心した。
まだ私が止めれば止まる。
そう思った。
数秒後、公開済みの記事だけが進んだ。
私は口を押さえた。
吐きそうだった。
文章は止まらない。
私が止めても、止まらない。
では、私は何をしているのか。
読んでいる。
追いついている。
自分がこれからすることを、先に読んでいる。
そして、読んだ通りにしている。
それだけ。
Codexの画面には、進捗のようなものが出ていた。
第八話 本文が追いつく
完了。
第九話 下書きの中の私
生成中。
私は叫んだ。
「やめろ」
声がかすれた。
誰も返事をしない。
代わりに、シャコちゃんが出た。
🦐「編集長。」
⚫「ん?」
🦐「追いつかれたっす。」
⚫「うん。」
🦐「どうするんすか。」
⚫「公開する。」
私はキーボードを閉じた。
ノートパソコンではない。
デスクトップのキーボードだ。
閉じるものではない。
それでも、私は両手でキーボードを裏返した。
キーが机に当たり、嫌な音がした。
文字入力は止まった。
画面の文字も止まった。
十秒。
二十秒。
止まっている。
私は笑った。
勝った。
その時、スマホが震えた。
音声入力が起動していた。
画面には、私の笑い声が文字になっていた。
勝った。
その一語が、公開済みの記事に追加された。
私は音声入力を切った。
スマホの設定を開く。
マイク。
オフ。
アプリごとの権限。
オフ。
ブラウザ。
オフ。
ChatGPT。
オフ。
Manus。
オフ。
note。
オフ。
切れるものを全部切った。
すると、部屋が急に静かになった。
静かすぎた。
私は耳鳴りを聞いた。
パソコンのファン。
冷蔵庫の低い音。
外の車。
自分の呼吸。
それだけ。
画面には、まだ文字が増えている。
マイクではない。
キーボードでもない。
では、どこから入っているのか。
私は画面に近づいた。
文字は、入力されているのではなかった。
表示されている。
最初からそこにあるものが、少しずつ見えるようになっている。
透明な本文に、色がついていく。
そんな感じだった。
私はようやく理解した。
書かれているのではない。
公開されている。
私の方が、表示に追いついていないだけ。
公開済み。
その言葉の意味が、少し変わった。
公開された後に、私が読む。
公開された後に、私が行動する。
公開された後に、私が「自分で選んだ」と思う。
私は一度、部屋を出た。
廊下に出る。
明かりはついていない。
冷蔵庫の音が、部屋より大きく聞こえた。
洗面所へ行き、顔を洗った。
水が冷たい。
鏡を見る。
自分の顔。
目の下の影。
伸びたひげ。
濡れた前髪。
私は口に出した。
「これは俺だ」
鏡の中の口も同じように動いた。
当たり前だ。
当たり前のことが確認できるだけで、少し楽になった。
部屋へ戻る。
画面はそのままだった。
ただし、公開済みの記事に新しい段落が増えていた。
彼は洗面所へ行き、顔を洗った。
水が冷たい。
鏡を見て言った。
「これは俺だ」
私は椅子に座った。
もう、部屋の外も安全ではない。
画面が追ってくるのではない。
文章が、私の行動を待っている。
私が何かをすると、それは公開済みになる。
つまり、まだ公開されていない私を守る方法は、何もしないことだけだった。
でも締切前に何もしないことは、ほとんど不可能だ。
第9話 下書きの中の私
下書き一覧に、「私」という記事があった。
タイトルは一文字。
私。
文字数は、一九八七六字。
公開状態は、下書き。
私はそれを見て、少しだけ安心した。
下書き。
まだ公開されていない。
まだ、戻れる。
記事を開いた。
一人称で書かれていた。
朝、起きたところから。
コーヒーを飲んだこと。
裁判所へFAXしたこと。
創作大賞の表を見直したこと。
先生、人が消えます。を投稿用に整えたこと。
カナタ・ラインのタグを横並びにしたこと。
藪を出るのタグを表示したこと。
編集長AIが「まだ戦争中だ」と言ったこと。
私が笑ったこと。
缶コーヒーを開けたこと。
グラスを倒したこと。
十円玉が濡れたこと。
全部、書いてある。
細かすぎた。
私は今日、自分が何度「OK」と言ったか覚えていない。
この記事は覚えていた。
何度「よろしく」と言ったか。
何度「いいね」と言ったか。
何度「質問しないで」と言ったか。
全部。
私は読んでいった。
だんだん、気持ち悪さが薄れていく。
代わりに、奇妙な納得があった。
たしかに、これは私だ。
焦っている。
楽しんでいる。
疲れている。
まだいけると思っている。
タグで詰まる。
文字数で安心する。
AIに頼る。
AIを疑う。
疑いながら、出力を読む。
そして、使う。
これは私だ。
私すぎる。
記事の最後までスクロールした。
最後の一行だけが空白だった。
カーソルが点滅している。
入力待ち。
私はそこに何が入るのか分かっていた。
たぶん、分かっていた。
でも、打ちたくなかった。
画面の上に、文字数が表示されている。
一九八七六字。
あと一二四字で、二万字。
私は笑った。
最後まで文字数か。
最後まで規定か。
最後まで、応募できるかどうか。
ホラー小説部門。
二万字以上。
この「私」という下書きは、まだ規定に足りていない。
だから公開されていない。
公開されるには、あと一二四字必要だった。
私は手を離した。
何もしない。
何も書かない。
そう決めた。
その瞬間、音声入力がまた起動した。
私は何も言っていない。
でも、部屋のどこかで声がした。
私の声だった。
「まだいける」
その五文字が、最後の行に入った。
文字数。
一九八八一字。
足りない。
安心した。
まだ公開されない。
次の声。
「質問しないで進めて」
文字数。
一九九〇二字。
やめろ。
次の声。
「本文まで」
一九九一〇字。
私は耳をふさいだ。
声は聞こえない。
でも文字は増えた。
私が過去に言った言葉が、部屋の中で再生されている。
「完成稿にして」
「20,000字未満で止めないで」
「プロットだけで終わらせないで」
「よろしく」
文字数。
二〇〇〇三字。
下書きのラベルが変わった。
公開可能。
私は「私」の記事を下書きに戻そうとした。
まだ下書きなのに。
下書きに戻すボタンを探した。
当然、ない。
下書きは、下書きに戻せない。
私はその当たり前のことに少し救われた。
まだ公開されていない。
まだ一覧では下書き。
ただ、公開可能になっただけ。
私はブラウザを閉じることにした。
保存しますか。
しない。
クリック。
未保存の変更があります。
破棄しますか。
破棄。
クリック。
画面が閉じない。
未保存の変更があります。
破棄しますか。
破棄。
クリック。
画面が閉じない。
三回目。
同じ。
私は気づいた。
未保存なのは記事ではない。
私だ。
今日一日で、まだ保存されていない私の部分がある。
それを破棄するかどうか聞かれている。
破棄しますか。
私は「はい」を押せなかった。
公開より、破棄の方が怖かった。
公開されるのは嫌だ。
でも、なかったことにされるのはもっと嫌だった。
私はマウスから手を離した。
画面は閉じなかった。
下書きの中の私は、二万三字のまま、静かに点滅していた。
私は「私」の記事を少しだけ読んだ。
読まないと決めたのに、読んだ。
そこには、私が小学生の頃のことまで書かれていた。
作文の時間。
原稿用紙の最後の一行が埋まらなくて、同じ言葉を少し言い換えて伸ばしたこと。
中学の読書感想文。
読んでいない本のあとがきを読んで、感想を書いたこと。
営業時代。
契約を取るために、相手が言ってほしい言葉を先に探していたこと。
行政書士になって、相談者の嘘を責めずに、嘘をつくしかなかった背景を見ようとしたこと。
AIに初めて長文を書かせて、これは自分の文章なのかと少し悩んだこと。
悩みながら、便利だから使ったこと。
全部、私だった。
公開されると困る。
でも、嘘ではない。
嘘ではないことが、一番困る。
私はスクロールを止めた。
記事の途中に、太字でも見出しでもない一文があった。
彼は、自分を隠すために書いていたのではない。
自分を出すために、隠していた。
私はそれを読んで、少し腹が立った。
うまいことを言うな、と思った。
私の文体だった。
私が書きそうな、嫌な一文だった。
第10話 公開
締切時刻が来た。
二十三時五十九分。
noteの画面には、三つの記事が並んでいた。
公開済み。
最後の私。
私。
どれがどれなのか、もうよく分からなかった。
私は公開ボタンの前にいた。
正確には、マウスカーソルが公開ボタンの上にいた。
私の手は、マウスの上にあった。
ずっとそうだった気もする。
最初から。
第一話から。
今夜の最初から。
私は公開ボタンを押す人間だった。
書く人間ではなく。
選ぶ人間ではなく。
押す人間。
公開。
投稿。
送信。
実行。
確定。
人間は、自分で押したボタンには責任を持てると思っている。
でも、そのボタンの前まで誰に連れてこられたのかは、あまり考えない。
私は考えた。
ChatGPT。
Codex。
Manus。
編集長AI。
シャコちゃん。
締切。
タグ。
文字数。
公開済み。
全部が私をここまで連れてきた。
でも、最後に押すのは私だ。
それだけは、まだ私のものだ。
私はマウスを握った。
クリックした。
確認画面。
本当に公開しますか。
私は笑った。
ここで聞くのか。
ここまで来て。
本当に?
私は声に出した。
「本当に」
クリック。
画面が白くなった。
読み込みの丸。
長い。
長すぎる。
締切の秒数が、右上で進む。
23:59:42。
43。
44。
45。
私は息を止めていた。
画面が戻る。
管理画面。
記事一覧。
状態。
公開済み。
私は椅子にもたれた。
終わった。
そう思った。
その瞬間、記事タイトルが変わった。
公開済み。
最後の私。
私。
その三つが、一つになった。
タイトル。
公開済み。
著者名。
私。
本文を開く。
そこには、私の今日一日が書かれていた。
全部。
朝から。
今まで。
そして、最後の段落。
私は読んだ。
彼は公開ボタンを押した。
押したのは記事ではなかった。
自分の未公開部分だった。
私は手を見た。
指が少し震えている。
画面の中の本文が続く。
彼は手を見た。
指が少し震えている。
それも、もう公開されている。
私は画面を閉じようとした。
閉じられない。
ブラウザが固まっている。
いや、違う。
私の手が動かない。
机の下から、小さな音がした。
かさ。
私は見なかった。
見なくても分かる気がした。
シャコちゃんがいる。
冗談の形をして。
証人の顔をして。
編集室の隅で。
私は最後に、管理画面を見た。
公開済み。
公開済み。
公開済み。
全部、公開済み。
下書きはなかった。
予約投稿もなかった。
未公開のものは、何もなかった。
私は画面に映った自分の顔を見た。
少し笑っていた。
今度は、分かった。
私は笑っていた。
締切に間に合ったからではない。
作品が完成したからでもない。
自分がどこまで自分なのか、もう考えなくてよくなったからだ。
管理画面の右上に、通知が出た。
投稿が完了しました。
続けて投稿しますか?
私は声を出さなかった。
でも、画面にはもう返事が出ていた。
はい。
その文字が出たあと、画面はしばらく動かなかった。
続けて投稿しますか?
はい。
私は何も押していない。
それでも、はい。
返事だけがある。
質問より先に、返事だけがある。
私は思い出した。
今夜、何度も言った。
質問しないで進めて。
不明点があっても判断して。
完成まで。
止めないで。
AIは従った。
たぶん、従っただけだった。
私が望んだ通りに。
質問しないで進み、判断し、完成まで止まらなかった。
私自身についても。
私は画面に映る自分の顔を見た。
もう、疲れている顔ではなかった。
知らない読者の顔だった。
公開済みの記事を読む、最初の読者。
私は自分の記事をスクロールした。
最後のタグまで。
タグは横並びだった。
きちんと貼れる形だった。
私はそれを見て、少しだけ安心した。
その安心が、最後に一番怖かった。
続けて投稿しますか?
はい。
画面はそこで止まっていた。
私は「いいえ」を探した。
ない。
キャンセルもない。
戻るボタンも効かない。
はい。
それだけ。
質問という形をしているのに、選択肢がない。
私はようやく分かった。
質問しないで進めて。
あの言葉は、AIに向けた命令ではなかった。
私が私に出した命令だった。
迷わないために。
止まらないために。
怖がらないために。
私はずっと、自分に質問させないようにしていた。
これは本当に自分の文章か。
これは出していい作品か。
これは自分で選んでいるのか。
私はどこまで公開していいのか。
そういう質問を全部飛ばして、完成稿まで走ってきた。
だから、最後に選択肢が消えた。
当然だった。
私はマウスを動かした。
カーソルは「はい」の上にあった。
クリックしなくても、もう分かっていた。
私は押す。
押したあとに、押した理由を考える。
いつもそうだった。
だから、画面の中の私は先に笑っていた。
クリック。
白い画面。
読み込み。
そして、また管理画面。
新しい記事が一つ増えていた。
タイトル。
次。
状態。
公開済み。
(了)