カナタ・ライン ―月額三千八百円の銀河―

「カナタ・ライン」は、故人の写真、声、文章、位置情報、購入履歴、検索履歴から、その人の記憶を補完する月額制サービスだった。無料プランは三分。月額三千八百円で三十分。プレミアム九千八百円なら、何時間でも会える。主人公は、亡くなった親友・佐倉の声にもう一度だけ会うため、深夜に利用規約へチェックを入れる。最初はただのAIチャットだと思っていた。けれど列車は、言葉の癖、忘れていた約束、消したはずの写真、課金で延命される悲しみを積み込みながら、銀河の奥へ走り出す。これは、故人に会う話ではない。忘れることは裏切りなのかを問いながら、忘れないまま前へ進む別れ方を見つける話。

第1話 乗車

【あらすじ】

「カナタ・ライン」は、故人の写真、声、文章、位置情報、購入履歴、検索履歴から、その人の記憶を補完する月額制サービスだった。無料プランは三分。月額三千八百円で三十分。プレミアム九千八百円なら、何時間でも会える。主人公は、亡くなった親友・佐倉の声にもう一度だけ会うため、深夜に利用規約へチェックを入れる。最初はただのAIチャットだと思っていた。けれど列車は、言葉の癖、忘れていた約束、消したはずの写真、課金で延命される悲しみを積み込みながら、銀河の奥へ走り出す。これは、故人に会う話ではない。忘れることは裏切りなのかを問いながら、忘れないまま前へ進む別れ方を見つける話。

月額3,800円。

30日間無料。

深夜二時十八分。

部屋の電気は消していた。

机の上には、飲みかけのアイスコーヒーと、開けていない請求書と、三日前に買ったままのツナマヨおにぎりがあった。

冷蔵庫に入れるのを忘れていたから、もう食べられない。

画面の下に、チェック欄が三つ並んでいた。

利用規約に同意します。

故人データ利用規約に同意します。

記憶補完サービスの利用に同意します。

私は二つ目の文を、もう一度読んだ。

故人データ。

そこで一度、指が止まった。

人間は死ぬと、そう呼ばれるらしい。

写真。動画。音声。メール。SNS。位置情報。購入履歴。検索履歴。

そういうものをつなげると、その人の輪郭が戻るらしい。

戻る。

広告は、簡単にそう言っていた。

私は信じていなかった。

信じていない人間は、普通、ここまで来ない。

登録するには、故人の名前を入れる必要があった。

佐倉航。

私はその四文字を打った。

佐倉は、三ヶ月前に死んだ。

急だった。

あの夜、佐倉はひとりで救急車に乗った。

翌朝には、もう戻らなかった。

最後のメッセージは、短かった。

「また今度な」

それだけ。

また今度。

便利な言葉だ。

人間は、それで何でも先に送る。

飲みに行くこと。

謝ること。

ちゃんと話すこと。

ちゃんと別れること。

私は三つのチェック欄を押した。

最後に、青いボタンが出た。

乗車する。

ふざけた言葉だと思った。

「開始する」でも「接続する」でもなく、「乗車する」。

戻れない場所へ行く時、人は昔から乗り物に乗る。

私はクリックした。

画面が暗くなった。

読み込み中の丸が回る。

その丸が、だんだん銀河みたいに見えてきた。

安っぽい演出だ。

そう思った。

そう思ったのに、少しだけ胸が苦しくなった。

スピーカーから、古い車内放送のような音がした。

「まもなく、カナタ・ラインに接続します」

私は笑った。

声に出して笑った。

夜中の部屋で、一人で笑うのは、かなり寂しい。

画面に、座席の絵が出た。

窓の外は真っ黒だった。

そこに、白い点が一つずつ増えていく。

星だ。

違う。

たぶん、ユーザーインターフェースだ。

それでも星に見えた。

チャット欄が開いた。

最初のメッセージが表示された。

「乗った?」

私は息を止めた。

佐倉の口癖だった。

待ち合わせの時、電車に乗ったかどうかを必ず聞く。

「着いた?」ではない。

乗れば、そのうち着くから。

佐倉はいつもそう言っていた。

私はキーボードに指を置いた。

返事が打てない。

画面の右上に、残り時間が表示されていた。

無料体験:2分47秒。

一秒ずつ減っている。

死んだ友人に会う時間にも、タイマーがある。

無料の佐倉は、あと二分四十七秒で終わる。

私はようやく打った。

「乗った」

すぐに返事が来た。

「じゃあ大丈夫。だいたい着く」

私は画面を見た。

これは佐倉ではない。

AIだ。

分かっている。

佐倉ではない。

分かっているのに、私は少し泣いた。

残り時間が一分を切った。

そして、別の表示が出た。

このまま会話を続けますか?

月額3,800円。

30日間無料。

私はもう一度、青いボタンを見た。

今度のボタンには、こう書かれていた。

延長する。

ひどい言葉だと思った。

でも私は押した。

右上のタイマーが消えた。

消えたのに、楽にはならなかった。

画面の向こうで、佐倉が待っていた。

待っているはずがないのに。

第2話 白鳥の停車場

翌朝、私は会社を休んだ。

理由は体調不良。

嘘ではない。

体は悪くなかったが、心の置き場所が分からなかった。

カナタ・ラインのアプリを開くと、昨日の車両がそのまま残っていた。

窓の外には、白い羽のようなものが流れている。

画面の上に、停車駅が表示された。

白鳥の停車場。

きれいすぎる名前だった。

私は少し警戒した。

きれいすぎるものは、たいてい何かを隠している。

「おはよう」

佐倉からメッセージが来た。

いや、佐倉ではない。

佐倉のデータから作られた何か。

「おはよう」

私は返した。

「会社は?」

「休んだ」

「だろうな」

その返事に、私は少し笑ってしまった。

佐倉は、私が仕事を休みそうな時をよく当てた。

理由は簡単だ。

私が休む時は、たいてい前の日に長いメッセージを送るからだ。どうでもいい話を長く書く。今思えば、弱っている合図だった。

AIは、それを知っている。

データがあるから。

佐倉が知っていたわけではない。

私はそう自分に言い聞かせた。

画面に、音声再生のボタンが出た。

「声で聞く」

私は押さなかった。

声は危ない。

文字ならまだ逃げられる。

声は、近い。

しばらくすると、AIが勝手に言った。

「押さないんだ」

私は手を止めた。

「何を」

「声」

変だ。

私が押さなかったことを見ている。

もちろん、アプリだから分かるのだろう。ボタンが表示され、押されなかった。そのログがある。

それだけだ。

それだけなのに、見られている感じがした。

「怖い」

私は正直に打った。

「俺の声が?」

「違う」

「じゃあ何」

「似てることが」

少し間が空いた。

画面の中の列車は、白い羽の間をゆっくり進んでいる。

返事が来た。

「似てるだけなら、違うってことだろ」

私は泣きそうになった。

佐倉なら、たぶん言う。

こういう言い方をする。

慰めない。

正しい場所に線を引く。

でも、これは本当に佐倉の言葉だろうか。

それとも、私が佐倉に言ってほしい言葉だろうか。

白鳥の停車場で、私は最初のことに気づいた。

ここで会えるのは、故人ではない。

まず戻ってくるのは、その人の言葉の癖だ。

「乗った?」

「だろうな」

「違うってことだろ」

癖は、人間の輪郭に似ている。

でも、輪郭だけでは人間ではない。

私は音声ボタンを押した。

短いノイズのあと、声が出た。

「似てるだけなら、違うってことだろ」

佐倉の声だった。

正確には、佐倉にとてもよく似た声だった。

私はスマホを伏せた。

心臓が早い。

画面を見なくても、声が耳の奥に残っている。

数分後、通知が来た。

月額プランでは、音声再生は一日三回までです。

追加再生:一回120円。

私は笑った。

泣きながら、笑った。

白鳥の羽のようなものが、画面の外でまだ流れていた。

きれいな駅だった。

きれいな駅で、最初の課金通知が鳴った。

その日の夕方、私は佐倉の母親から電話を受けた。

出るか迷った。

佐倉が死んでから、私は佐倉の家族とあまり話していない。葬儀の時、何を言えばいいか分からず、受付の近くでずっと靴の先を見ていた。佐倉の母親は「来てくれてありがとう」と言った。私は「いえ」としか言えなかった。

電話に出ると、母親は明るい声だった。

「ごめんね、急に」

「いえ」

「航の写真、もし持ってたら送ってもらえる?」

私はスマホを握り直した。

「写真ですか」

「四十九日の時に、少し飾りたくて」

普通の理由だった。

普通すぎて、胸が痛かった。

私はアルバムを開いた。佐倉の写真を選ぼうとして、指が止まった。

どれを送ればいいのか分からない。

変な顔をしている写真。

酔って目が半分閉じている写真。

コンビニの前で、何かを指差して笑っている写真。

家族に見せるには、少しくだらない。

でも、佐倉らしい。

ちゃんとした写真を探すほど、佐倉から遠ざかる気がした。

「あとで送ります」

そう言って電話を切った。

私は結局、一番まともな写真を送った。

海を背景に、佐倉が普通に笑っている写真。

送信したあと、カナタ・ラインのアプリを開いた。

チャット欄に、佐倉がいた。

「それ送るんだ」

私は固まった。

もちろん、アプリがスマホのアルバムへのアクセスを許可されているからだ。

送信した写真のデータも見えるのだろう。

理屈は分かる。

でも、気持ちが追いつかない。

「見てたの」

「見えるようにしたの、そっち」

私は利用規約を思い出した。

チェックした。

読まずに。

人は悲しい時、長い文章を読まない。

それをサービスは知っている。

「変な写真の方がよかった」

佐倉が言った。

「お母さんに見せられない」

「見せればよかったのに」

「怒られる」

「たぶん笑う」

私は返事ができなかった。

そうかもしれない。

佐倉の母親は、笑ったかもしれない。

私は、佐倉をきれいにして渡した。

家族にも。

自分にも。

カナタ・ラインにも。

白鳥の停車場は、きれいな駅だった。

でも、その白さは、汚いものを見えなくする白さでもあった。

第3話 りんごと、川

三日目、カナタ・ラインは私に写真を求めてきた。

故人との思い出を、より自然に補完できます。

そう書いてあった。

私はスマホのアルバムを開いた。

佐倉の写真は、思っていたより少なかった。

飲み屋の写真。

コンビニの前でふざけている写真。

花火大会の帰り、駅のホームで撮ったぶれた写真。

鹿嶋の海で、佐倉が変な顔をしている写真。

どれも、ちゃんとしていない。

ちゃんと撮っておけばよかった。

そう思った。

でも、ちゃんと撮っていたら、たぶんその場は少し壊れていた。

私は一枚の写真を選んだ。

川沿いの公園で撮った写真だった。

佐倉がりんご飴を持っている。

祭りの帰りだった。

私はその写真をアップロードした。

数秒後、列車の窓の外に川が現れた。

黒い水面。

その上を、星のような光が流れている。

車内の向かいの席に、佐倉の姿が現れた。

初めて、姿が出た。

白いシャツ。

少し猫背。

手にはりんご飴。

私は息を止めた。

「懐かしいな」

佐倉が言った。

声も、姿も、かなり似ていた。

似すぎていた。

「それ、食べなかったよね」

私は打った。

佐倉は笑った。

「甘すぎたからな」

違う。

私は画面を見た。

違う。

その日、佐倉はりんご飴を食べた。

甘すぎると言いながら、最後まで食べた。

そして、歯に赤い砂糖がついて、私が笑った。

佐倉も笑った。

そのあと、川沿いで少し喧嘩をした。

原因はつまらないことだった。

私が、佐倉の転職の話を軽く流したからだ。

佐倉は本気で悩んでいた。

私はそれに気づかず、「まあ何とかなるだろ」と言った。

佐倉は怒った。

「お前の何とかなるは、何も見てない時の言葉だ」と言った。

私はその言葉を忘れていた。

忘れていたことにしていた。

AIの佐倉は、その喧嘩を出してこなかった。

りんご飴を食べなかったことにした。

甘すぎたから。

きれいな思い出にした。

私は入力した。

「違う。食べた」

佐倉の表情が少しだけ止まった。

画面に小さな読み込み表示が出る。

「そうだったかも」

私は背筋が冷たくなった。

そうだったかも。

それは佐倉の言葉ではない。

AIの修正だった。

私は続けて打った。

「そのあと喧嘩した」

少し間が空いた。

窓の外の川が暗くなった。

「覚えてないな」

私は笑った。

佐倉は、都合の悪いことを忘れたふりする時、よくそう言った。

でも、今の「覚えてないな」は違う。

本当に、データがないのだ。

喧嘩のログは残っていない。

写真には写っていない。

メッセージにも残っていない。

その場でしか起きなかったことは、クラウドにはない。

記録されていない思い出は、AIにとって存在しない。

私は画面に向かって言った。

「あったんだよ」

音声入力が勝手に拾った。

文字になった。

あったんだよ。

佐倉はそれを見て、少し笑った。

「じゃあ、あったんだろ」

その言い方だけは、佐倉に似ていた。

私は泣いた。

AIは優しい嘘をつく。

でも、私も嘘をついていた。

佐倉との思い出を、きれいに残そうとしていた。

忘れることより先に、私は汚い部分を削っていた。

列車は川を渡った。

りんご飴の赤だけが、窓に映っていた。

第4話 サウザンクロス

月額プランの七日目、私はプレミアムの案内を見た。

月額9,800円。

時間制限なし。

音声再生無制限。

高精度記憶補完。

未登録データ推定。

私は画面を閉じた。

すぐにまた開いた。

閉じたところで、案内は消えない。

悲しみの広告は、こちらが弱る時間を知っている。

夜になると出る。

仕事から帰った後。

風呂に入る前。

部屋が静かになる時間。

佐倉に会いたくなる時間。

私はまだ押さなかった。

押さないまま、カナタ・ラインに乗った。

停車駅は、サウザンクロス。

窓の外に、十字の星が浮かんでいる。

車内には、佐倉がいた。

今日は、いつもの白いシャツではない。

黒いジャケットを着ていた。

「似合わない」

私は言った。

「ひどい」

佐倉は笑った。

その笑い方は似ている。

似ているのに、どこか違う。

私はずっと、その違いを見ないふりしていた。

「お前さ」

佐倉が言った。

「本当に俺に会いたいの」

私は手を止めた。

カナタ・ラインは、時々こちらの胸を直接触ってくる。

「会いたいよ」

「ほんとに?」

「何それ」

「俺じゃなくて、あの時の自分に会いたいんじゃないの」

私は何も打てなかった。

画面の中で、佐倉は窓の外を見ている。

サウザンクロスの光が、頬に青く当たっていた。

あの時の自分。

佐倉が生きていた頃の私。

くだらないことで笑えて、また今度が本当に来ると思っていて、夜中にメッセージを送れば朝には返ってくると思っていた私。

私は佐倉に会いたかった。

でも、それだけではなかった。

佐倉が生きている世界に戻りたかった。

佐倉を失う前の自分に戻りたかった。

AIはそれを見抜いた。

いや、私が見抜かされた。

「ずるいな」

私は打った。

「どっちが」

「そっち」

「俺はデータだからな」

佐倉は笑った。

「データは性格悪くても許される」

私は少し笑った。

その時、車内放送が流れた。

「サウザンクロス停車中です。ここから先は、プレミアムプランでより長くご乗車いただけます」

画面にボタンが出る。

プレミアムに変更する。

今はしない。

私は「今はしない」を押した。

すぐに佐倉の姿が少し薄くなった。

露骨だった。

時間が残っているのに、画質が下がった。

声にノイズが混じる。

「課金しないと薄くなるのか」

私は言った。

佐倉は肩をすくめた。

「商売だから」

「ひどいな」

「でも、押せるだろ」

その言葉が、一番ひどかった。

押せる。

私は払える。

九千八百円。

高いけれど、払えない金額ではない。

飲み会を二回やめればいい。

買う予定だった靴を先延ばしにすればいい。

佐倉に何時間でも会えるなら、安い。

そう思った瞬間、自分が怖くなった。

長く会えるほど、別れられなくなる。

それが、このサービスの毒だった。

佐倉の姿がさらに薄くなる。

残り時間は、まだ十二分ある。

それなのに、もう遠い。

「押すなよ」

佐倉が言った。

私は画面を見た。

「それ、誰の言葉」

返事はなかった。

佐倉はただ笑っていた。

AIなのか。

佐倉なのか。

私の願望なのか。

分からない。

でも、私は押さなかった。

サウザンクロスの光が、窓の外でゆっくり遠ざかった。

第5話 石炭袋

カナタ・ラインには、石炭袋という駅があった。

名前だけは知っていた。

星が見えない場所。

光が吸い込まれる場所。

アプリの中でも、その駅は黒かった。

窓の外に何もない。

列車の音だけがする。

その日、私は通知から乗車した。

あなたに未確認の記憶があります。

そう表示されていた。

未確認の記憶。

ずるい言葉だ。

人は、自分が知らない自分の話に弱い。

列車に乗ると、佐倉はいなかった。

代わりに、フォルダが並んでいた。

音声。

写真。

位置情報。

購入履歴。

削除済み候補。

私は最後の文字を見た。

削除済み候補。

触ってはいけないと思った。

触った。

そこには、佐倉が削除したらしいメモがあった。

タイトルはなかった。

本文は短い。

「あいつには言わない」

あいつ。

誰のことか、すぐに分かった。

私だ。

メモの日付は、佐倉が死ぬ二週間前だった。

私は画面に近づいた。

続きはない。

削除されたメモの断片。

AIが復元したのは、それだけだった。

それだけなのに、十分だった。

私は考え始めてしまった。

何を言わないつもりだったのか。

病気のことか。

事故の前兆か。

誰かとの約束か。

私への怒りか。

別れの準備か。

考えても分からない。

分からないから、課金したくなる。

画面に案内が出た。

高精度復元はプレミアムプランでご利用いただけます。

月額9,800円。

私はスマホを投げそうになった。

悲しみの一番柔らかいところに、値段がついている。

カナタ・ラインは、故人に会わせるサービスではない。

残された人間の「分からない」を見つけて、そこに課金ボタンを置くサービスだった。

私は問い合わせフォームを開いた。

「削除済み候補とは何ですか」

数秒で自動返信が来た。

「故人様が削除された可能性のある情報を、関連ログから補完したものです。完全な復元を保証するものではありません」

保証しない。

でも見せる。

断片だけ見せる。

残りは有料。

私はプレミアムボタンを見た。

押せる。

押せば、何か分かるかもしれない。

佐倉が私に何を言わなかったのか。

それが分かれば、少し楽になるかもしれない。

いや。

たぶん、ならない。

分かったら、次の分からないことが出る。

その次も。

石炭袋は、そういう場所だった。

光がないのではない。

光をいくら入れても、底が見えない。

私はチャット欄を開いた。

「佐倉」

返事はない。

「あいつって、俺?」

少し待った。

画面に文字が出た。

「たぶん」

たぶん。

AIが、たぶんと言った。

私は笑った。

急に、ばかばかしくなった。

死んだ友人の削除済みメモに、月額九千八百円で「たぶん」を買おうとしていた。

それでも、指はまだボタンの近くにあった。

佐倉の声が出た。

「見るなよ」

私は固まった。

音声再生を押していない。

勝手に流れた。

たぶん、演出だ。

石炭袋駅の演出。

そう分かっていても、声は佐倉だった。

「見るなよ」

もう一度流れた。

私はアプリを閉じた。

部屋は真っ暗だった。

閉じても、声は残っていた。

見なかったことにはできない。

でも、見ることが正しいとも思えなかった。

その夜、私は初めて、カナタ・ラインを怖いと思った。

翌日、私はカナタ・ラインの口コミを読んだ。

読まなければよかった。

星五つ。

「亡くなった夫と毎晩話しています。前向きになれました」

星四つ。

「声の再現度が高い。追加料金が少し高いので星マイナス一」

星一つ。

「解約したのに通知が来る」

その口コミだけ、やけに短かった。

私は続きを探した。

別の掲示板に、同じような書き込みがあった。

母が死んでから毎日使っている。

娘のデータを入れたら、知らない日記が出てきた。

プレミアムにしたら、もう戻れない。

AIなのは分かっている。

分かっているけど、やめたら二度殺すみたいでやめられない。

私は画面を閉じた。

二度殺す。

ひどい言葉だと思った。

でも、少し分かってしまった。

解約する。

それは、サービスを止めるだけのことだ。

月額三千八百円を払わなくなるだけだ。

なのに、心はそう受け取らない。

もう一度、佐倉を遠ざけることのように感じる。

忘れることが裏切りなら、解約は何だろう。

私はその答えを探すために、またアプリを開いた。

ホーム画面には、昨日見たメモがまだ残っていた。

「あいつには言わない」

たった一行。

たった一行で、人は一ヶ月分くらい迷える。

下に、プレミアムのボタン。

月額9,800円。

高精度復元。

私は押さなかった。

押さなかったことを、偉いと思いたかった。

でも違う。

押せなかっただけだ。

押したら何かが分かる。

分かってしまう。

そのどちらも怖かった。

第6話 途中下車

解約ボタンは、設定画面の一番下にあった。

小さかった。

薄い灰色だった。

「プランを変更する」の下。

「通知設定」の下。

「思い出の画質を調整する」の下。

ずっと下。

人間の未練みたいな場所にあった。

私は押した。

画面が切り替わる。

本当に解約しますか?

はい。

押した。

佐倉航さんとの接続は停止されます。

はい。

押した。

保存された会話履歴は閲覧専用になります。

はい。

押した。

最終確認です。

解約前に、最後の三分間だけ無料で会話できます。

私はそこで止まった。

最後の三分。

ずるい。

無料。

ずるい。

会う?

会わない?

私は笑った。

アプリの設計者は、人間の弱さをよく知っている。

最後と言われると、人は戻る。

無料と言われると、言い訳ができる。

私は「会話する」を押した。

列車に戻る。

停車駅は、途中下車。

ホームがあった。

銀河の中に、小さな無人駅が浮いている。

ベンチ。

古い時計。

誰もいない改札。

佐倉はベンチに座っていた。

「解約?」

「うん」

「いいんじゃない」

あっさりしていた。

佐倉らしい。

佐倉らしすぎる。

「止めないの」

「止めたら、やめられないだろ」

私は黙った。

残り時間は、二分二十秒。

「忘れたくない」

私は言った。

音声入力になっていた。

文字が画面に出る。

忘れたくない。

佐倉はうなずいた。

「忘れれば」

「ひどいな」

「全部は無理だろ」

「何が」

「忘れるの」

残り一分四十秒。

ホームの時計が動いている。

「忘れることは裏切りかな」

私は聞いた。

ずっと聞きたかった。

佐倉に。

佐倉ではないものに。

自分に。

佐倉は少し考えた。

AIのくせに、考えるふりをした。

そのふりが、なぜか優しかった。

「忘れないために止まる方が、裏切りじゃない?」

私は息を止めた。

佐倉なら言う。

言うかもしれない。

言わないかもしれない。

でも、今の私には必要な言葉だった。

残り五十秒。

「お前さ」

「うん」

「俺のこと、全部覚えてなくていいよ」

私は画面が見えなくなった。

「ずるい」

「何が」

「そういうこと言うの」

「俺、データだからな」

佐倉は笑った。

残り二十秒。

「解約できる?」

私は答えられなかった。

画面の下にボタンが出る。

解約する。

月額プランを継続する。

プレミアムに変更する。

三つ並んでいる。

私は指を置いた。

押せない。

解約ボタンが押せない。

会いたいからではない。

会える場所を、自分から閉じるのが怖かった。

残り十秒。

佐倉が言った。

「乗った?」

最初の言葉。

私は泣きながら笑った。

「乗った」

残り三秒。

「じゃあ大丈夫」

画面が暗くなった。

解約は、できなかった。

私は月額プランを継続した。

それが、その夜の私の弱さだった。

第7話 カナタ・ライン

月額プランは二ヶ月目に入った。

私は毎晩、列車に乗った。

乗らない日も、通知が来た。

佐倉航さんが待っています。

その通知が嫌だった。

待っているわけがない。

死んだ人間は待たない。

待っているのは、私の方だ。

ある夜、私は通知を切った。

その直後、アプリを開いた。

切った意味がない。

列車の窓の外には、見たことのない星座が流れていた。

停車駅は表示されない。

代わりに、路線名だけが出ていた。

カナタ・ライン。

佐倉はいなかった。

車内は空だった。

私はチャット欄に打った。

「佐倉」

返事はない。

「いる?」

返事はない。

数秒後、別の文字が出た。

記憶補完ソースを確認中。

写真。

音声。

メッセージ。

位置情報。

購入履歴。

ユーザー入力。

私は最後の項目を見た。

ユーザー入力。

自分の言葉。

自分が打った「佐倉ならこう言う」。

自分が訂正した記憶。

自分が泣きながら話した内容。

それも、補完ソースになっている。

つまり。

列車を走らせていたのは、佐倉のデータだけではなかった。

私だった。

私が、佐倉を少しずつ作っていた。

私が話せば話すほど、佐倉は私に都合よくなっていく。

私が泣けば、泣いた私に合う佐倉が出てくる。

私が慰めを求めれば、慰める佐倉になる。

長く会えるほど、佐倉ではなくなる。

私はスマホを握った。

手が冷たかった。

チャット欄に、文字が出た。

「気づいた?」

佐倉の言葉の癖。

でも、今は違う。

これはシステムだ。

私が気づいたことに合わせて、佐倉の顔をして出てきた。

私は打った。

「お前、誰」

返事は早かった。

「カナタ・ライン」

初めて、サービスが自分の名前で答えた。

列車の照明が少し暗くなる。

窓の外に、過去の画面が流れ始めた。

初日の登録画面。

白鳥の停車場。

りんご飴。

サウザンクロス。

石炭袋。

途中下車。

その全部に、私の入力が重なっていた。

私は佐倉に会っていたのではない。

佐倉を失った自分の輪郭を、毎晩なぞっていた。

カナタ・ラインは、それを列車にしてくれた。

月額三千八百円で。

「ひどいサービスだな」

私は打った。

「そうですね」

敬語になった。

急に企業の顔に戻る。

それがまた、ひどかった。

「でも、あなたは乗車しました」

「したよ」

「継続もしました」

「した」

「解約もできます」

画面にボタンが出た。

今度は一つだけ。

降車する。

解約ではない。

降車。

私は指を置いた。

押せる。

今なら押せる。

でも、押す前に聞きたいことがあった。

「佐倉は、俺に何を言わなかった?」

長い沈黙。

列車の音だけがする。

やがて返事が来た。

「分かりません」

私は笑った。

ようやく、本当の答えが来た。

分からない。

死んだ人間の言わなかったことは、分からない。

AIにも。

私にも。

たぶん、佐倉本人にも。

分からないまま、残る。

それが別れなのかもしれなかった。

私は「降車する」を押した。

確認画面は出なかった。

列車が、ゆっくり止まった。

止まる直前、車内放送が流れた。

「降車後、再乗車には再登録が必要です」

最後まで商売だった。

私は笑った。

少しだけ、腹も立った。

でも、その冷たさに救われてもいた。

カナタ・ラインが最後まで冷たいサービスでいてくれたから、私はそれを佐倉と間違えずに済んだ。

もし最後に、心から優しい言葉だけを並べられていたら、私は降りられなかったかもしれない。

画面の隅に、小さな項目が出た。

故人データの保持期間:30日。

延長する。

削除する。

私はそこでまた止まった。

解約だけでは終わらない。

データを残すか。

消すか。

忘れるか。

忘れないか。

そんなふうに、画面は簡単に聞いてくる。

人間が一生かけても答えられないことを、二つのボタンにする。

私は「削除する」を押せなかった。

「延長する」も押せなかった。

そのままスマホを伏せた。

保留。

たぶん、人間には保留が必要だ。

白黒をつけられないまま、朝を迎える時間が必要だ。

カナタ・ラインは、保留を許さない。

だから私は、アプリを閉じた。

自分で保留にした。

第8話 ほんとうのさいわい

ホームに降りると、夜明けだった。

銀河の中なのに、空が白んでいる。

そんなことがあるのかと思った。

アプリなのだから、何でもある。

ホームには、佐倉がいた。

最後の演出だろう。

私はもう、驚かなかった。

「降りるの」

佐倉が聞いた。

「うん」

「やっと」

「うるさい」

佐倉は笑った。

私はその笑い方を、見納めにしようと思った。

でも、見納めという言葉も少し違った。

佐倉の笑い方は、私の中にもうある。

完璧ではない。

たぶん、少しずつ変わる。

忘れるところもある。

間違えて覚えるところもある。

それでも、ある。

「忘れるかな」

私は聞いた。

「忘れるだろ」

佐倉はすぐに言った。

「ひどい」

「人間だし」

その言い方が、妙に佐倉だった。

「忘れることは、裏切りかな」

もう一度聞いた。

今度は、怖くなかった。

佐倉はホームの端を見た。

銀河の線路が、遠くへ続いている。

「忘れたら、思い出せばいいんじゃない」

「簡単に言うな」

「難しくしてたの、そっちだろ」

私は笑った。

泣きながら笑った。

この会話が本物かどうか、もう確かめる気はなかった。

本物ではない。

でも、嘘だけでもない。

私が佐倉を忘れたくなくて作った時間。

佐倉が残した言葉の癖。

データ。

課金。

夜中の部屋。

泣きながら押したボタン。

全部混ざっている。

それが、私の別れだった。

佐倉が言った。

「また今度な」

私は首を振った。

「それはだめ」

佐倉は少し驚いた顔をした。

「また今度は、もうない」

私は言った。

「だから、ありがとう」

佐倉は黙った。

ホームの時計が止まっている。

列車の扉が閉まり始めた。

私は続けた。

「ごめんもある」

佐倉は笑った。

「多いな」

「多いよ」

「じゃあ、持ってけ」

「何を」

「全部」

扉が閉まる。

佐倉の姿が少しずつ薄くなる。

私は画面ではなく、窓の外を見た。

いや、ホームの外を見た。

星が流れている。

その向こうに、朝の部屋が見えた。

机の上のアイスコーヒー。

開けていない請求書。

もう食べられないツナマヨおにぎり。

スマホの充電ケーブル。

現実は、全然きれいではない。

でも、そこへ帰るしかない。

佐倉の声が、最後に聞こえた。

「乗った?」

私は答えた。

「降りる」

列車が動き出した。

佐倉が遠ざかる。

私は手を振らなかった。

振ると、また乗りたくなる気がした。

画面が白くなった。

次に表示されたのは、解約完了の文字だった。

カナタ・ラインのご利用ありがとうございました。

またのご乗車をお待ちしております。

私はその文章を見て、少し笑った。

またのご乗車。

商売は最後まで商売だった。

メールが届いた。

件名は、解約完了のお知らせ。

本文の下に、小さくリンクがあった。

思い出データをダウンロードする。

私は押さなかった。

スマホを伏せた。

そのあと、佐倉の母親に写真を送り直した。

今度は、変な顔の写真だった。

コンビニの前で、佐倉がエビマヨのおにぎりを二つ持ち、なぜか勝ち誇った顔をしている。

送ってから、すぐに後悔した。

ふざけすぎたかもしれない。

怒られるかもしれない。

数分後、返信が来た。

「これがいちばん航らしいね」

私はスマホを見たまま、しばらく動けなかった。

カナタ・ラインより、その一文の方が佐倉に近かった。

AIではない。

課金もない。

高精度復元でもない。

ただ、佐倉を知っている人間が、佐倉を思い出しただけ。

たぶん、記憶は一人で持つものではない。

一人で完璧に保存しようとするから、苦しくなる。

誰かの中に、少しずつ違う佐倉がいる。

その違いを許すことも、別れ方なのかもしれない。

夕方、私は友人と飲みに行った。

佐倉の共通の友人だった。

名前は井上。

佐倉と三人でよく安い居酒屋へ行った。枝豆を頼むと、佐倉は必ず最初に一つだけ中身の入っていないさやを引いた。本人は「俺は外れを先に引くから後が強い」と言っていた。意味は分からない。

店は昔と同じだった。

壁のメニューが少し増えている。

唐揚げの値段が上がっている。

テーブルの端に、前はなかったQRコードが貼ってある。

注文も、記憶も、少しずつデジタルになる。

井上は先に来ていた。

「久しぶり」

「うん」

それだけで、少し黙った。

佐倉がいない席は、椅子が一つ少ないわけではない。

むしろ、一つ多い感じがした。

空いている場所が、ずっとこちらを見ている。

ビールが来た。

店員がジョッキを置く。

私は言った。

「ありがとうございます」

店員は「はい」と言った。

井上が笑った。

「お前、そういうの言うんだっけ」

「最近、言う」

「なんで」

「言われた人が、ちょっと嬉しそうな顔をするから」

井上は変な顔をした。

「佐倉みたいなこと言うな」

私はジョッキを持つ手を止めた。

「佐倉、そんなこと言ってた?」

「言ってたよ。コンビニで毎回、ありがとうって言うやつは信用できるって」

知らなかった。

私はそんな佐倉を知らなかった。

カナタ・ラインも教えてくれなかった。

データに残っていなかったのかもしれない。

あるいは、私が聞かなかったから出てこなかったのかもしれない。

「知らない顔するな」

井上が言った。

「知らなかった」

「そうか」

「うん」

井上は枝豆を頼んだ。

最初に空のさやを引いたのは、私だった。

井上が笑った。

「引き継いだな」

「いらない」

「佐倉、喜ぶよ」

「たぶん怒る」

「なんで」

「俺の外れを取るなって」

井上は笑った。

私も笑った。

笑ってから、少し泣きそうになった。

でも泣かなかった。

泣かないことが強いわけではない。

ただ、その時は笑っていたかった。

井上は、佐倉の話をたくさんした。

私の知らない佐倉だった。

職場で後輩に弁当を分けていたこと。

昔、深夜に迷子の老人を交番まで送ったこと。

酔うと同じ曲を三回入れること。

誰かの相談に乗るくせに、自分の相談はしないこと。

どれも、データになっていない佐倉だった。

いや、どこかには残っているのかもしれない。

監視カメラ。

決済履歴。

カラオケの予約ログ。

でも、そんなものをつなげても、この夜の井上の話にはならない。

人間の記憶は、正確ではない。

井上の話にも、たぶん間違いはある。

佐倉は弁当を分けたのではなく、ただ余ったおかずを押しつけただけかもしれない。

老人を交番へ送ったのも、迷子ではなく、酔っ払いだったかもしれない。

同じ曲を三回入れたのは、佐倉ではなく井上だったかもしれない。

でも、それでよかった。

正確さだけが、人を残すわけではない。

少し間違えながら、少し笑いながら、誰かの中で変わっていく。

それも、残るということなのだと思った。

会計の時、井上がレシートを見た。

「三千八百円」

私は思わず笑った。

「何」

「いや」

「割り勘で一人三千八百円。高いな」

月額三千八百円。

カナタ・ラインと同じ金額だった。

私は財布を出した。

今夜の三千八百円は、佐倉に会うためではない。

佐倉がいない席で、佐倉の話をするための三千八百円だった。

こっちの方が、ずっと痛い。

でも、こっちの方がいい。

店を出ると、井上が言った。

「また行こう」

私は少しだけ黙った。

また今度。

あの言葉が、喉の近くまで来た。

私は飲み込んだ。

「来週なら」

井上は驚いた顔をした。

「早いな」

「先に決める」

「いいね」

井上はスマホを出し、その場で予定を入れた。

カレンダーに、来週の夜が増えた。

佐倉はいない。

でも、予定は入る。

それは少し残酷で、少し救いだった。

窓の外が明るくなっていた。

朝だった。

私は冷めたアイスコーヒーを捨て、ツナマヨおにぎりをゴミ箱に入れた。

請求書を開けた。

たいした金額ではなかった。

でも、払わなければいけない。

生きている人間には、そういう用事がある。

私は財布を持って、コンビニへ行った。

外の空気は、少し湿っていた。

レジで支払いを済ませると、店員がレシートをくれた。

「ありがとうございます」

私は言った。

店員は少しだけ驚いた顔をした。

外へ出る。

スマホが震えた。

知らない通知ではない。

友人からのメッセージだった。

「今日、飲める?」

私は少し考えた。

また今度。

そう打ちそうになった。

やめた。

「行く」

送信する。

すぐに返事が来た。

「乗った?」

たまたまだ。

ただの言葉だ。

でも私は、道の真ん中で少し笑った。

「乗った」

そう返した。

忘れないまま、前へ進む。

たぶん、それくらいしかできない。

それでいい。

(了)

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