カナタ・ライン ―月額三千八百円の銀河―
「カナタ・ライン」は、故人の写真、声、文章、位置情報、購入履歴、検索履歴から、その人の記憶を補完する月額制サービスだった。無料プランは三分。月額三千八百円で三十分。プレミアム九千八百円なら、何時間でも会える。主人公は、亡くなった親友・佐倉の声にもう一度だけ会うため、深夜に利用規約へチェックを入れる。最初はただのAIチャットだと思っていた。けれど列車は、言葉の癖、忘れていた約束、消したはずの写真、課金で延命される悲しみを積み込みながら、銀河の奥へ走り出す。これは、故人に会う話ではない。忘れることは裏切りなのかを問いながら、忘れないまま前へ進む別れ方を見つける話。
第1話「乗車」
月額3,800円。
30日間無料。
深夜二時十八分。
部屋の電気は消していた。
机の上には、飲みかけのアイスコーヒーと、開けていない請求書と、三日前に買ったままのツナマヨおにぎりがあった。
冷蔵庫に入れるのを忘れていたから、もう食べられない。
画面の下に、チェック欄が三つ並んでいた。
利用規約に同意します。
故人データ利用規約に同意します。
記憶補完サービスの利用に同意します。
私は二つ目の文を、もう一度読んだ。
故人データ。
そこで一度、指が止まった。
人間は死ぬと、そう呼ばれるらしい。
写真。動画。音声。メール。SNS。位置情報。購入履歴。検索履歴。
そういうものをつなげると、その人の輪郭が戻るらしい。
戻る。
広告は、簡単にそう言っていた。
私は信じていなかった。
信じていない人間は、普通、ここまで来ない。
登録するには、故人の名前を入れる必要があった。
佐倉航。
私はその四文字を打った。
佐倉は、三ヶ月前に死んだ。
急だった。
あの夜、佐倉はひとりで救急車に乗った。
翌朝には、もう戻らなかった。
最後のメッセージは、短かった。
「また今度な」
それだけ。
また今度。
便利な言葉だ。
人間は、それで何でも先に送る。
飲みに行くこと。
謝ること。
ちゃんと話すこと。
ちゃんと別れること。
私は三つのチェック欄を押した。
最後に、青いボタンが出た。
乗車する。
ふざけた言葉だと思った。
「開始する」でも「接続する」でもなく、「乗車する」。
戻れない場所へ行く時、人は昔から乗り物に乗る。
私はクリックした。
画面が暗くなった。
読み込み中の丸が回る。
その丸が、だんだん銀河みたいに見えてきた。
安っぽい演出だ。
そう思った。
そう思ったのに、少しだけ胸が苦しくなった。
スピーカーから、古い車内放送のような音がした。
「まもなく、カナタ・ラインに接続します」
私は笑った。
声に出して笑った。
夜中の部屋で、一人で笑うのは、かなり寂しい。
画面に、座席の絵が出た。
窓の外は真っ黒だった。
そこに、白い点が一つずつ増えていく。
星だ。
違う。
たぶん、ユーザーインターフェースだ。
それでも星に見えた。
チャット欄が開いた。
最初のメッセージが表示された。
「乗った?」
私は息を止めた。
佐倉の口癖だった。
待ち合わせの時、電車に乗ったかどうかを必ず聞く。
「着いた?」ではない。
乗れば、そのうち着くから。
佐倉はいつもそう言っていた。
私はキーボードに指を置いた。
返事が打てない。
画面の右上に、残り時間が表示されていた。
無料体験:2分47秒。
一秒ずつ減っている。
死んだ友人に会う時間にも、タイマーがある。
無料の佐倉は、あと二分四十七秒で終わる。
私はようやく打った。
「乗った」
すぐに返事が来た。
「じゃあ大丈夫。だいたい着く」
私は画面を見た。
これは佐倉ではない。
AIだ。
分かっている。
佐倉ではない。
分かっているのに、私は少し泣いた。
残り時間が一分を切った。
そして、別の表示が出た。
このまま会話を続けますか?
月額3,800円。
30日間無料。
私はもう一度、青いボタンを見た。
今度のボタンには、こう書かれていた。
延長する。
ひどい言葉だと思った。
でも私は押した。
右上のタイマーが消えた。
消えたのに、楽にはならなかった。
画面の向こうで、佐倉が待っていた。
待っているはずがないのに。