いちばん後ろの人

国民的だったコメンテーターの、女性マネージャー。元バレーボール選手で、腕っぷしは強いが、仕事は「いちばん後ろ」にいて、見たことを口に出さないこと。十年、そうしてきた。ある日、担当タレントが、生放送で、世間を騒がせる失踪事件について、空気を読まない本音を口にする。スポンサーが、上層部が、「彼のため」という名前で、用意した謝罪文を読ませようとする。それは、いちばん優しくて、いちばん静かな圧力だった。いちばん後ろにいたはずのマネージャーは、生まれて初めて、立ち上がる。これは、テレビという巨大な藪の中で、誰も「王様は裸だ」と言えない世界で、いちばん目立たない裏方が、たった一度だけ前に出る、お仕事小説です。

第一話「いちばん後ろの席」

わたしの仕事は、たぶん、世界でいちばん地味だ。

国民的コメンテーターの、マネージャー。

テレビに映る、あの人の、すぐ後ろにいる人。──いや、後ろにすら、映らない人。

その日も、収録は、いつも通りだった。

うちのタレントは、元・国民的スポーツ選手の、二世だ。名前を聞けば、たぶん、あなたも顔が浮かぶ。背が高くて、声が大きくて、自信が服を着て歩いている。本人は、自分のことを「言いたいことを言う男」だと思っている。まわりは、「同じことしか言わない男」だと思っている。

その日のロケは、近場のバス旅だった。

うちのタレントは、遠くに行くのを、嫌がる。「移動時間がもったいない」と言うが、本当は、長く座っていると、腰が痛いからだ。それを言わないのが、彼のプライドで、それを知っているのが、わたしの仕事だ。

共演は、関西の、お笑いコンビ。

小柄なほうが、よく切れる刃物みたいな人で、大柄なほうが、その刃物をそっと布で包むみたいな人だった。

バスが走り出して、五分で、事件は起きた。

「そういえば」と、小柄なほうが言った。「兄さん、昔、映画撮りましたよね」

うちのタレントの、目が、光った。自分の話ができる。彼がいちばん好きな時間だ。

「ああ。撮った。監督もやった」

「あれ、何人が観たんですか」

バスの中が、静かになった。

「……配給の事情が、いろいろあってな」

「何人ですか」

「……いろいろ、あってな」

大柄なほうが、すかさず、布で包んだ。「いや、ええ映画でしたよ。僕は、好きでした」

「ほんまか」

「観てへんけど」

バスが、笑いで、揺れた。

わたしは、いちばん後ろの席で、台本に、小さく丸をつけた。──ここ、使える。いい絵だ。

ロケ中、わたしは、ずっと、いちばん後ろにいる。

カメラに映らない場所で、弁当を食べ、スケジュールを確認し、タレントの機嫌の温度を、計っている。

ちなみに、いま食べているのは、タレントぶんで多めに頼んだ、駅弁だ。彼は、ロケ中はあまり食べない。だから、余る。余ったものを食べるのも、マネージャーの仕事のうちだ。──というのは、嘘で、ただ、ここの牛めしが、おいしいからだ。

わたしの朝は、ボスの、機嫌の予報から、始まる。

迎えの車に、乗り込んだ瞬間の、空気で、その日が、決まる。よく晴れた日は、機嫌がいい。雨の日は、腰が痛むから、口数が、減る。前の夜に、野球の、贔屓のチームが、負けていると、最悪だ。

その日は、晴れていた。だから、わたしは、すこし、油断していたのかもしれない。

収録の前、控室で、彼は、新聞を、読んでいた。スポーツ欄じゃ、なかった。社会面だった。あの、失踪事件の、記事を、じっと、見ていた。

「兄さん、そろそろ」と、声を、かけると。

彼は、新聞を、ぱっと、閉じて、いつもの顔に、戻った。

「おう。今日は、何だっけ。気が、乗らねえなあ」

気が乗らない、と言うときの、彼は、たいてい、何かを、気にしている。わたしは、それを、十年で、覚えた。でも、その「何か」が、何なのかまでは、教えてくれない。教えてくれないのも、込みで、わたしの、仕事だった。

バスが、ある停留所で、停まった。

次のロケ地までの、待ち時間。

気づくと、うちのタレントが、座席で、寝ていた。

大きな体を、窓にもたせかけて、口を、すこし開けて。

さっきまで、あんなに自信たっぷりに喋っていた人が、いまは、ただの、疲れた中年の男だった。

カメラは、回っていない。だから、これは、放送されない。

でも、わたしは、この顔を、知っている。

テレビに映る、自信満々のあの人より、わたしは、この、寝顔のほうを、ずっと長く、見てきた。

どっちが、本当の、あの人か。

たぶん、両方だ。

テレビは、片方しか、映さないだけで。(※)

わたしの仕事は、映らないほうの、あの人を、知っていることだ。

(※)この物語には、「※」がときどき出てくる。これは、わたし──マネージャーの、心の中の声だ。口に出さないことを書く場所。わたしの仕事は、口に出さないことだから、たぶん、この※のほうが、わたしの本当だ。

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