いちばん後ろの人

国民的だったコメンテーターの、女性マネージャー。元バレーボール選手で、腕っぷしは強いが、仕事は「いちばん後ろ」にいて、見たことを口に出さないこと。十年、そうしてきた。ある日、担当タレントが、生放送で、世間を騒がせる失踪事件について、空気を読まない本音を口にする。スポンサーが、上層部が、「彼のため」という名前で、用意した謝罪文を読ませようとする。それは、いちばん優しくて、いちばん静かな圧力だった。いちばん後ろにいたはずのマネージャーは、生まれて初めて、立ち上がる。これは、テレビという巨大な藪の中で、誰も「王様は裸だ」と言えない世界で、いちばん目立たない裏方が、たった一度だけ前に出る、お仕事小説です。

第一話 「いちばん後ろの席」

【あらすじ】

国民的だったコメンテーターの、女性マネージャー。元バレーボール選手で、腕っぷしは強いが、仕事は「いちばん後ろ」にいて、見たことを口に出さないこと。十年、そうしてきた。

ある日、担当タレントが、生放送で、世間を騒がせる失踪事件について、空気を読まない本音を口にする。スポンサーが、上層部が、「彼のため」という名前で、用意した謝罪文を読ませようとする。それは、いちばん優しくて、いちばん静かな圧力だった。

いちばん後ろにいたはずのマネージャーは、生まれて初めて、立ち上がる。

これは、テレビという巨大な藪の中で、誰も「王様は裸だ」と言えない世界で、いちばん目立たない裏方が、たった一度だけ前に出る、お仕事小説です。

わたしの仕事は、たぶん、世界でいちばん地味だ。

国民的コメンテーターの、マネージャー。

テレビに映る、あの人の、すぐ後ろにいる人。──いや、後ろにすら、映らない人。

その日も、収録は、いつも通りだった。

うちのタレントは、元・国民的スポーツ選手の、二世だ。名前を聞けば、たぶん、あなたも顔が浮かぶ。背が高くて、声が大きくて、自信が服を着て歩いている。本人は、自分のことを「言いたいことを言う男」だと思っている。まわりは、「同じことしか言わない男」だと思っている。

その日のロケは、近場のバス旅だった。

うちのタレントは、遠くに行くのを、嫌がる。「移動時間がもったいない」と言うが、本当は、長く座っていると、腰が痛いからだ。それを言わないのが、彼のプライドで、それを知っているのが、わたしの仕事だ。

共演は、関西の、お笑いコンビ。

小柄なほうが、よく切れる刃物みたいな人で、大柄なほうが、その刃物をそっと布で包むみたいな人だった。

バスが走り出して、五分で、事件は起きた。

「そういえば」と、小柄なほうが言った。「兄さん、昔、映画撮りましたよね」

うちのタレントの、目が、光った。自分の話ができる。彼がいちばん好きな時間だ。

「ああ。撮った。監督もやった」

「あれ、何人が観たんですか」

バスの中が、静かになった。

「……配給の事情が、いろいろあってな」

「何人ですか」

「……いろいろ、あってな」

大柄なほうが、すかさず、布で包んだ。「いや、ええ映画でしたよ。僕は、好きでした」

「ほんまか」

「観てへんけど」

バスが、笑いで、揺れた。

わたしは、いちばん後ろの席で、台本に、小さく丸をつけた。──ここ、使える。いい絵だ。

ロケ中、わたしは、ずっと、いちばん後ろにいる。

カメラに映らない場所で、弁当を食べ、スケジュールを確認し、タレントの機嫌の温度を、計っている。

ちなみに、いま食べているのは、タレントぶんで多めに頼んだ、駅弁だ。彼は、ロケ中はあまり食べない。だから、余る。余ったものを食べるのも、マネージャーの仕事のうちだ。──というのは、嘘で、ただ、ここの牛めしが、おいしいからだ。

わたしの朝は、ボスの、機嫌の予報から、始まる。

迎えの車に、乗り込んだ瞬間の、空気で、その日が、決まる。よく晴れた日は、機嫌がいい。雨の日は、腰が痛むから、口数が、減る。前の夜に、野球の、贔屓のチームが、負けていると、最悪だ。

その日は、晴れていた。だから、わたしは、すこし、油断していたのかもしれない。

収録の前、控室で、彼は、新聞を、読んでいた。スポーツ欄じゃ、なかった。社会面だった。あの、失踪事件の、記事を、じっと、見ていた。

「兄さん、そろそろ」と、声を、かけると。

彼は、新聞を、ぱっと、閉じて、いつもの顔に、戻った。

「おう。今日は、何だっけ。気が、乗らねえなあ」

気が乗らない、と言うときの、彼は、たいてい、何かを、気にしている。わたしは、それを、十年で、覚えた。でも、その「何か」が、何なのかまでは、教えてくれない。教えてくれないのも、込みで、わたしの、仕事だった。

バスが、ある停留所で、停まった。

次のロケ地までの、待ち時間。

気づくと、うちのタレントが、座席で、寝ていた。

大きな体を、窓にもたせかけて、口を、すこし開けて。

さっきまで、あんなに自信たっぷりに喋っていた人が、いまは、ただの、疲れた中年の男だった。

カメラは、回っていない。だから、これは、放送されない。

でも、わたしは、この顔を、知っている。

テレビに映る、自信満々のあの人より、わたしは、この、寝顔のほうを、ずっと長く、見てきた。

どっちが、本当の、あの人か。

たぶん、両方だ。

テレビは、片方しか、映さないだけで。(※)

わたしの仕事は、映らないほうの、あの人を、知っていることだ。

────────────────

(※)この物語には、「※」がときどき出てくる。これは、わたし──マネージャーの、心の中の声だ。口に出さないことを書く場所。わたしの仕事は、口に出さないことだから、たぶん、この※のほうが、わたしの本当だ。

第二話 「気が、淀んでる」

*収録は、いつも、誰かが誰かを、いじることで回っている。

日曜の朝の番組は、三人で回している。

うちのボス──元・国民的選手の二世。

関西のお笑いコンビ。小柄で、よく切れる、理屈の人。長身で、その理屈をなだめる、常識の人。

この三人を、同じスタジオに入れると、だいたい、何かが起きる。

わたしの仕事は、その「何か」が、放送できる範囲に収まるように、いちばん後ろから見張っていることだ。

その日の議題は、世間を騒がせている、ある失踪事件だった。

北関東の町で、整備士の男が消えた。防犯カメラもドラレコもあるのに、記録がどれも食いちがっている、という、あの事件だ。

VTRが明けて、まず、口を開いたのは、ボスだった。

「俺はね、これ、直感で分かるんだよ」

スタジオが、すこし、身構えた。彼が「直感」と言うとき、だいたい、ろくなことにならない。

「気が、淀んでるんだよ。この現場。防犯カメラ? そんなの当てになんないよ。こういうのはね、大体、霊的なものか、ただの勘違い。まあ、俺、現場行ってないから、知らんけど」

わたしは、いちばん後ろで、カンペの裏に、太字で書いた。

『知らんけど、で逃げない』

間に合わなかった。(※1)

「いやいや、ちょっと待ってくださいよ」

すかさず、理屈の人が、噛みついた。

「霊って。令和ですよ。データが食いちがうんやったら、誰かがいじってるに決まってるでしょ。俺やったら、絶対、見抜けますって」

「お前が見抜けるわけないだろ」

「なんでですか」

「気が、足りない」

「気の問題ちゃう! ロジックの問題です!」

長身の人が、あいだに、長い腕を入れた。

「もうええって、二人とも。テレビやぞ。……まあでも、確かに、映像が食いちがうのは、気持ち悪いですけどね。次、専門家の先生に──」

「専門家もね」と、ボスが、かぶせた。「現場の気を、読めてないからね」

「また気か!」

スタジオが、笑いに包まれた。

いい絵だ、と、わたしは思った。視聴者は、この三人の、この感じが、好きなのだ。誰も傷つかない、じゃれ合い。日曜の朝に、ちょうどいい、ぬるさ。

でも、わたしは、ひとつだけ、気づいていた。

ボスが、さっき、「霊的なもの」と言って、笑いに逃げたとき。

ほんの一瞬、彼の目が、VTRの、ある一点を、見ていた。

失踪した男の、車の、映像。

彼は、たぶん、何かに、気づいている。

気づいていて、「気が淀んでる」なんて、くだらないことを言って、隠している。

彼は、そういう人だ。本当に大事なことほど、ふざけて、隠す。(※2)

収録のあと、楽屋で、ボスは、弁当に、手をつけなかった。

「腰が痛いんですか」と、わたしは訊いた。

「いや」と、彼は言った。「あの事件さ」

「はい」

「うちのカミさんの、田舎の、近くなんだよ。あの町」

わたしは、黙っていた。

「昔さ、似たようなことが、あったんだよ。人が、ひとり、消えてさ。みんな、好き勝手なこと言って、結局、何も分からないまま、忘れていった」

彼は、めずらしく、静かだった。

「テレビって、さ。結局、藪を、増やしてるだけなんじゃないか、って。たまに、思うんだよ」

それから、いつもの顔に、戻った。

「──なんてな。知らんけど」(※3)

────────────────

(※1)わたしのカンペは、たいてい、間に合わない。彼は、止められると分かっていて、その前に、言う。だから、わたしのカンペは、半分は、視聴者ではなく、彼自身への、抗議だ。

(※2)この人を、十年、見てきた。テレビに映る「自由で適当な人」は、半分は、本物で、半分は、よくできた、鎧だ。

(※3)「知らんけど」は、この人の、いちばん長く使っている言葉だ。本当は知っているときほど、この言葉を、使う。

第三話 「本人より、人気が出た」

*本人より、人気が出てしまう裏方の話を、すこし。

わたしのことを、説明しておく。

元・実業団の、バレーボール選手だった。スパイクと、ブロックが、仕事だった。引退して、縁あって、いまの事務所に入り、いまのボスに付いた。

腕っぷしは、いまでも、ある。これは、本当だ。

収録の現場で、ボスが暴走しかけると、わたしは、後ろから、肩に手を置く。たいていの男は、それで、止まる。止まらないときは、すこし、力を入れる。(※1)

最近、おかしなことが、起きている。

わたしのほうが、本人より、人気が出てきたのだ。

ロケ先で、ファンが、わたしに、声をかける。SNSに、わたしの写真が、上がる。先日は、すれ違った、有名なアイドルグループの子が、「あ、マネージャーさんだ」と、わたしに、手を振った。

ボスは、それを見て、こう言った。

「おかしいだろ。俺の、立場が、ないじゃないか」

拗ねていた。本気で、すこし、拗ねていた。

先週も、こんなことが、あった。

ロケ先の、商店街で、若い女の子の、二人組が、こちらに、近づいてきた。ボスが、サングラスを、直して、サインペンを、探すそぶりを、した。国民的選手の、息子だ。声を、かけられるのには、慣れている。

でも、女の子たちは、ボスの、前を、通り過ぎて。

わたしの、前で、止まった。

「あの、マネージャーさんですよね! いつも、見てます! 写真、いいですか!」

わたしは、戸惑いながら、ボスのほうを、見た。

彼は、サインペンを、握ったまま、固まっていた。

その日の、帰りの車で、彼は、ひとことも、しゃべらなかった。腰が痛い、とも、言わなかった。ただ、窓の外を、見ていた。

わたしは、悪いことを、した気分で。でも、どう、謝っていいかも、分からなくて。結局、いつもの、駅弁を、二つ、買って、ひとつを、差し出した。

彼は、それを、無言で、受け取って、ぼそっと、言った。

「……お前の、ぶんも、買っとけよ。いつも、俺のを、食ってるんだから」

それが、その日の、唯一の、会話だった。

四十を過ぎた、元・国民的選手の二世が、自分のマネージャーに、人気で負けて、本気で、拗ねている。

わたしは、そういう、彼の、子どもみたいなところを、わりと、嫌いではない。(※2)

でも、人気が出る、ということは。

わたしの「いちばん後ろ」が、だんだん、「後ろ」じゃ、なくなってきている、ということだ。

裏方は、裏に、いるから、裏方なのだ。

表に、出てしまったら。

わたしが、ずっと、口に出さずに、守ってきたものは、どうなるんだろう。

わたしの仕事は、見たものを、言わないことだった。

ボスの、楽屋での顔。止めきれなかった失言。本当は気づいているのに、ふざけて隠す癖。

それを、ぜんぶ、知っていて、何も言わない。

それが、いちばん後ろの人の、仕事だった。

でも、もし。

いつか、わたしが、何かを「言わなきゃいけない」日が、来るとしたら。

そのとき、わたしは、まだ、いちばん後ろに、いられるだろうか。(※3)

その日の夜、あの失踪事件が、また、動いた。

ニュースが、報じた。失踪した男の、姉が、ある探偵に、調査を依頼していた、と。

そして、その探偵が、何かを、つかんだらしい、と。

番組のプロデューサーから、わたしのスマホに、連絡が来た。

「次の日曜、あの事件、もう一回、やります。今度は、目玉として」

いやな、予感がした。

テレビが、本気で、藪に、入っていく。

そして、うちのボスが、その藪の、いちばん前に、立たされる。(※4)

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(※1)濱の字の長身の彼にも、一度、パンチが当たったことがある。事故だ。たぶん、事故だ。

(※2)拗ねるボスを見ていると、わたしは、ときどき、忘れそうになる。この人が、国民的ヒーローの、息子として、生まれた重さを。生まれたときから、ずっと、誰かと比べられてきた人なのだ。自由なふりは、たぶん、その人の、生き延びかただ。

(※3)この問いの答えを、わたしは、まだ、知らない。

(※4)テレビは、藪を晴らすために、藪に入るのではない。藪を、もっと深くするために、入る。視聴率という名の、霧を、撒きながら。

第四話 「本人が、わざと」

*テレビが、本気で藪に入っていく。ボスが、その最前列に立たされた。

日曜の朝。

あの失踪事件は、番組の、目玉になっていた。

スタジオの大型モニターに、防犯カメラの映像が、四つ、並んでいた。ドアホン。アーケード。バスのドラレコ。そして、車の、移動履歴。

司会の女性アナが、原稿を読む。

「同じ朝の、同じ男性が、それぞれの記録で、まったく違う行動を……専門家も、首をかしげる、不可解な失踪事件です」

VTRが明けて、コメントを求められたのは、まず、うちのボスだった。

わたしは、いちばん後ろで、息を、止めた。

彼が、何を言うか。──いや、何を、言わないか。

ボスは、モニターを、しばらく見ていた。

めずらしく、すぐには、口を開かなかった。

「……これね」

来る、と思った。「気が淀んでる」。いつもの逃げ。それで、いい。それで、今日は、波風が立たない。

「これ、たぶん」

彼は、言った。

「本人が、わざと、やってんだよ」(※1)

スタジオの、空気が、止まった。

司会のアナの、笑顔が、固まった。

「えっと……あの、それは、どういう……」

「だから、消えたかったんだろ、この人。完璧に記録される時代に、消えるにはさ、記録を、ぐちゃぐちゃにするしかないじゃない。自分を、何人にも、増やすしかない。──そういう、覚悟の、話なんだよ。これ」

わたしは、カンペを、持つ手が、止まっていた。

彼の言っていることは。

たぶん、正しかった。

いつも、ふざけて、「知らんけど」で逃げる人が。今日は、逃げなかった。(※2)

「いやいや、待ってください」

論理派の彼が、噛みついた。いつもの調子で。

「覚悟って。そんな、ドラマみたいな。普通に、誰かがデータいじっただけでしょ。事件、事件」

「お前さ」と、ボスが言った。静かだった。「人が、ひとり、本気で消えようとした、その気持ちをさ。『データいじっただけ』で、片付けんなよ」

スタジオが、しん、とした。

長身の彼も、今日は、間に入らなかった。入れなかった。

司会のアナが、必死で、軌道を、戻した。

「で、では、CMのあと、専門家の先生に……」

CM。

モニターの赤いランプが、消えた。

その、十五秒の、闇のなかで。

プロデューサーが、スタジオに、駆け込んできた。わたしの、すぐ前を、通って、ボスのところへ。

「ちょっと、困りますよ。あんな、言い方。スポンサーが」

「何が」

「行方不明者を、美談みたいに。ご家族が見たら、どう思います。クレーム、来ますよ」

ボスは、黙っていた。

プロデューサーは、早口で、続けた。

「CM明け、訂正してください。『あくまで個人の感想です』『軽率でした』って。それで、収めましょう」

わたしは、いちばん後ろで、見ていた。

ボスが、ゆっくり、口を、開きかけた。

たぶん、謝る。この人は、こう見えて、現場を、荒らさない人だ。最後は、いつも、丸く収める。

──それで、いい。それが、賢い。

わたしは、そう、思っていた。

思って、いたのに。(※3)

────────────────

(※1)十年、見てきて、この人が、この目をするのを、わたしは、二度しか、見ていない。本気のときの、目だ。

(※2)あとで知ったことだが、この日の朝、ボスは、楽屋で、あの事件の記事を、ぜんぶ、読んでいた。「現場行ってないから知らんけど」は、嘘だった。誰よりも、現場に、行っていた。心で。

(※3)わたしの「いい」は、いつも、「波風が立たない」と、同じ意味だった。この日まで。

第五話 「訂正しない」

*いつも丸く収める人が、その日は、収めなかった。

CMが、明けた。

赤いランプが、灯った。

司会のアナが、笑顔を、作り直した。

「さて、CM前の話に、戻りますが……コメンテーターの皆さんの、率直なご意見ということで。ねえ?」

わたしには、分かった。これは、合図だ。「さっきのは、なかったことにしましょう」という、優しい、出口。

ボスが、それに、乗れば。

「いやあ、俺も、適当なこと言っちゃってさ」と、笑えば。

ぜんぶ、丸く、収まる。

わたしは、カンペに、書いて、見せた。

『流していいですよ』(※1)

ボスは、わたしの、カンペを、見た。

見て、それから、カメラのほうを、向いた。

「さっき、俺が言ったこと」

声が、低かった。

「訂正、しろって、言われたんだけどさ」

スタジオが、凍った。プロデューサーが、袖で、頭を、抱えるのが、見えた。

「俺、訂正、しないわ」

「……あの、待ってください」

「消えた人がさ。きっと、誰かを、守るために、消えたんだと、俺は、思う。それを、『軽率でした』って、俺が、謝ったらさ。その人の、覚悟まで、軽くなるだろ」

彼は、まっすぐ、カメラを、見ていた。

「俺は、それは、しない。──知らんけど、じゃ、なくて。俺は、そう、思う」(※2)

スタジオの、誰も、動けなかった。

論理派の彼が、何か、言いかけて、やめた。いつもなら、ここで、噛みつくはずの人が。今日は、口を、つぐんだ。たぶん、彼にも、分かったのだ。これは、いじって、いい場所じゃ、ない、と。

司会のアナが、必死で、原稿を、めくる音だけが、した。

わたしは、いちばん後ろで、カンペを、握ったまま、動けずに、いた。

止めるべきだった。マネージャーとして。スポンサーが、上層部が、どう思うか。あとで、どれだけ、面倒なことになるか。ぜんぶ、見えていた。

見えていたのに。

わたしは、その瞬間、ほんの一瞬だけ、止めたく、なかった。

止めたくない、なんて。十年で、初めての、感情だった。

放送が、終わった。

楽屋は、お通夜みたいだった。プロデューサーは、電話を、かけに、出ていった。たぶん、上に、謝りに。

ボスは、ソファに、座って、天井を、見ていた。

わたしは、いつもの、駅弁を、二つ、買ってきた。ひとつを、彼に、渡した。

今日は、彼は、受け取った。

「怒ってるか」と、彼が、訊いた。

「いえ」

「怒ってるだろ。せっかく、丸く収まるとこを、俺が、ぶち壊したって」

わたしは、すこし、考えて、言った。

「……たぶん、十年で、いちばん、かっこよかったです。今日の、あなた」

彼は、驚いた顔をして、それから、笑った。

「なんだよ、それ」(※3)

でも、わたしは、知っていた。

かっこよさには、代償が、あることを。

その夜、ネットは、荒れていた。

『失踪を美化するな』『不謹慎』『コメンテーター失格』。

顔も知らない何百人が、それぞれの、正義を、断言していた。

百年前は、三人だった。

いまは、藪の中に、何百人も、いる。(※4)

────────────────

(※1)わたしの仕事は、彼を、守ることだ。そして、わたしにとって「守る」は、長いあいだ、「無難でいさせる」と、同じ意味だった。

(※2)「知らんけど」を、使わなかった。十年で、初めて、聞いた。彼の、本当の声だった。

(※3)この「なんだよ、それ」を、わたしは、たぶん、一生、覚えている。

(※4)テレビが、藪を晴らすために入って、結局、もっと深い藪を、作った。ボスは、その藪の、いちばん深いところで、ひとり、立っていた。守ろうとした人と、同じ場所に。

第六話 「用意された謝罪」

*かっこよさには、代償がある。その代償を、誰が、払うのか。

月曜の朝、事務所に、呼ばれた。

長い、テーブルの、向こうに、社長と、番組の、偉い人たちが、並んでいた。

うちのボスは、いなかった。「本人は、呼ばなくていい」と、言われた。

代わりに、マネージャーの、わたしが、座っていた。

「彼に、コメントを、出してもらいたい」と、偉い人が、言った。

紙が、すべってきた。

『先日の発言について、配慮を欠いておりました。深くお詫び申し上げます』

謝罪文だった。本人が、書いたものじゃない。誰かが、用意した、ことばだった。(※1)

「これを、本人に、読ませて、SNSに、上げてください」

偉い人は、言った。優しい声だった。

「彼のため、なんですよ。このままだと、番組も、危ない。彼の、立場も、危ない。早めに、頭を、下げておけば、みんな、忘れます。──彼を、守るために、です」

守るために。

その言葉を、わたしは、知っていた。

わたしも、十年、それを、言い訳にしてきた。「守るため」に、彼を、無難な場所に、置いてきた。本当のことを、言わせないように、してきた。

でも。

あの日、彼は、無難を、捨てた。

消えた誰かの、覚悟を、軽くしないために。

その彼に、いま、わたしが、「これを読め」と、用意された謝罪文を、渡すのか。(※2)

わたしは、紙を、見ていた。

わたしの仕事は、いちばん後ろで、見ていることだ。口に出さず、波風を立てず、彼を、守ること。

十年、そうしてきた。それが、裏方の、誇りだと、思ってきた。

でも。

いちばん後ろの人が、いちばん後ろに、居続けることが。

本当に、彼を、守ることに、なるんだろうか。

わたしの、頭の中で、十年分の、声が、鳴っていた。

裏方は、出しゃばるな。マネージャーは、タレントの、影でいろ。意見を、言うな。波風を、立てるな。それが、プロだ。それが、この仕事の、誇りだ。

ぜんぶ、正しい。ぜんぶ、わたしが、十年、信じてきたことだ。

いま、立ち上がれば、わたしは、その十年を、自分で、否定することになる。明日から、この業界に、わたしの、居場所は、なくなるかもしれない。

膝の上で、手が、震えていた。

でも。

あの日、カメラの前で、震えながらも、逃げなかった、ボスの、横顔を、思い出した。

十年、いちばん後ろから、見てきた、あの人の。いちばん、かっこよかった、横顔を。

わたしは、紙を、テーブルに、置いた。

そして、立ち上がった。

元・バレーボール選手の、背の高さで、その部屋の、誰よりも、高いところから。

口を、開いた。(※3)

────────────────

(※1)用意された謝罪は、いちばん、罪が軽くて、いちばん、嘘が重い。

(※2)十年で、初めて、わたしは、自分の仕事の意味が、分からなくなっていた。守るって、なんだ。黙らせることが、守ることなのか。

(※3)ここから先、わたしが、何を言ったか。それは、次で。──わたしは、生まれて初めて、いちばん前に、立った。

第七話 「いちばん前に」

*いちばん後ろの人が、生まれて初めて、いちばん前に立った。

部屋じゅうの目が、わたしに、集まった。

マネージャーが、立ち上がる。そんなこと、十年で、一度も、なかった。裏方は、座っていることが、仕事だ。意見を言うことは、仕事じゃない。

社長が、けげんな顔で、わたしを、見た。

「……どうした」

わたしは、テーブルの上の、謝罪文を、指で、すこし、押し返した。

「これは、本人に、読ませません」

空気が、変わった。

「あのね」と、偉い人が、笑った。困った、大人の笑いだった。「君の気持ちは、分かるよ。でも、これは、彼のためで」

「彼のため、っておっしゃいますけど」

わたしは、言葉を、選んだ。十年、飲み込んできた言葉を、初めて、外に、出すのだから。

「彼は、あの日、消えた人の、覚悟を、軽くしたくない、と言いました。だから、訂正しなかった。それは、軽率な失言じゃ、ないんです。あの人が、十年で、いちばん、本気で言った言葉です。──それを、この、誰かが書いた紙で、なかったことに、するんですか」(※1)

「うちのタレントは」

声が、すこし、震えた。構わず、続けた。

「ふだん、適当なことばかり、言います。気が淀んでる、とか。知らんけど、とか。わたしが、いちばん近くで、十年、聞いてきました。

でも、あの人が、ああいうふうに、ふざけるのは。本当のことを言うのが、こわいからです。国民的なお父さんと、ずっと、比べられてきた人だから。本気を出して、それでも敵わなかったら、立ち直れない。だから、先に、ふざける。

その人が、あの日、ふざけるのを、やめたんです。

顔も知らない、消えた誰かのために。

わたしは、その人の、マネージャーで。──それを、守れないなら、わたしが、ここにいる意味が、ありません」(※2)

部屋が、静まりかえった。

わたしは、自分の心臓の音を、聞いていた。

言ってしまった。十年、いちばん後ろで、飲み込んできたことを、ぜんぶ。

たぶん、わたしは、明日から、この仕事を、失う。

それでも。

不思議と、こわく、なかった。

いちばん後ろの席より、いちばん前は、ずっと、息が、しやすかった。(※3)

長い、沈黙の、あとで。

ずっと黙っていた、ひとりの、年配の男性が、口を、開いた。

番組の、いちばん古い、ベテランアナウンサーだった。

「……いいか、ひとつ、昔話を、していいか」

その人は、ゆっくりと、言った。

「四十年、この仕事を、してきてな」(※4)

────────────────

(※1)わたしの声は、震えていた。でも、止まらなかった。十年ぶんの、ことばだったから。

(※2)この日まで、わたしは、自分が、彼を、こんなにも、買っているとは、知らなかった。口に出して、初めて、自分の本当が、分かることが、ある。

(※3)裏方は、息を、ひそめる仕事だ。だから、たぶん、わたしは、十年、すこし、息を、止めていた。

(※4)この人の昔話を、わたしは、忘れない。この物語で、いちばん、大事な話に、なるから。

第八話 「王様は、裸だ」

*四十年、テレビを見てきた人が、いちばん静かな声で、いちばん重いことを言った。

ベテランアナウンサーのことを、すこし、説明する。

国民的に、愛されている人だ。涙もろくて、すぐ泣く。野球の話になると、人が変わる。ロケのバスでは、たいてい、寝ている。「もう年だから」が、口癖で、若い出演者から、いじられても、にこにこ、している。

誰からも、好かれている。誰からも、本気にされていない。

そういう、ポジションの人だった。(※1)

「四十年、この仕事を、してきてな」

その人は、テーブルの、木目を、見ながら、話した。

「いろんな人が、消えていったよ。事件を、起こした人。ひとこと、間違えた人。ただ、時代に、合わなくなった人。

そのたびに、わたしらは、こうやって、集まってな。『本人のために』『早めに頭を下げて』『みんな、すぐ忘れますから』って。紙を、用意して、読ませて。

それでな。みんな、忘れたよ。たしかに。

……でも、本人は、忘れなかった。一度、自分で書いてもいない謝罪を、読まされた人間は、もう、二度と、本気で、しゃべらなくなる。空っぽの、いい人に、なる。テレビが、いちばん、扱いやすい人に」(※2)

「わたしが、そうだ」

その人は、笑った。泣いているみたいな、笑いだった。

「わたしも、昔、一度、本気で、怒ったことがあってな。それで、紙を、読まされた。それから、四十年。わたしは、ずっと、にこにこ、して、バスで、寝てる。誰も、傷つけない。誰からも、本気にされない。──それが、楽だったんだ。

だからな」

その人は、顔を、上げた。

「あの子の、訂正は、わたしは、賛成できん。あの若いマネージャーの言うとおりだ。

みんな、見て見ぬふりを、してるが。

王様は、裸だよ。

いちばん、本気でしゃべった人間を、寄ってたかって、空っぽにするのが、正しいわけが、ないだろう」(※3)

誰も、何も、言えなかった。

四十年、にこにこ、して、バスで、寝ていた人が。

いちばん、本当のことを、知っていた。

いちばん、言わずに、きた人が。

いちばん、静かに、言った。(※4)

────────────────

(※1)愛されているのに、本気にされない。それは、ある意味で、いちばん、安全な場所だ。傷つかずに、済むから。わたしは、その安全を、すこし、分かってしまう。

(※2)「空っぽの、いい人」。それは、わたしが、十年かけて、うちのボスを、しようとしていた姿だった。守る、という名前で。

(※3)「王様は裸だ」。この言葉を、いちばん言えない場所で、いちばん言えない人が、言った。

(※4)バスで寝てるのは、疲れているからじゃ、なかったのかもしれない。起きていると、見えすぎるから、かもしれない。

第九話 「方向性の違い」

*正しいことを言った人から、順番に、いなくなる仕組みが、ある。

ベテランアナの、ひとことで。

その場は、収まった。謝罪文は、保留になった。わたしは、クビにも、ならなかった。

その日は。

でも、機械は、忘れない。

一週間後、番組の、改編が、発表された。

表向きは、「リニューアル」だった。新しいMC。新しいセット。新しい、出演者。

うちのボスの名前は、新しい表に、なかった。ベテランアナの名前も、なかった。

誰も、「あの発言のせいだ」とは、言わなかった。

ただ、静かに、外された。「方向性の違い」という、いちばん、便利な、ことばで。(※1)

正しいことを言った人から、順番に、いなくなる。

声を荒らげて、クビにするんじゃない。

怒鳴りもしない。罰も、与えない。

ただ、次の表から、名前を、消すだけ。

それは、とても、静かで、とても、きれいな、暴力だった。データを、上書きするみたいに。記録から、そっと、その人を、消すみたいに。(※2)

わたしは、思い出した。

三年前にも、似たことが、あった。

うちと同じ事務所の、若い、お笑い芸人が、ある番組で、政治の話に、本気で、踏み込んだことが、あった。正論だった。誰も、否定できない、正しさだった。

彼は、怒鳴られも、しなかった。謝罪も、求められなかった。

ただ、次の月から、レギュラーが、ひとつ、減った。その次の月に、もうひとつ。半年後には、テレビから、消えていた。

いまは、地方で、営業を、まわっていると、聞いた。

誰も、彼を、罰しなかった。誰も、彼を、悪く、言わなかった。

ただ、表から、名前が、消えただけ。

わたしは、そのとき、何も、しなかった。「うちのタレントじゃ、ないから」と、目を、つぶった。

いま、思う。

あのとき、目を、つぶった人間が、何百人も、いたから。彼は、消えたのだ。

わたしも、その、何百人の、ひとりだった。

わたしは、思い出していた。

あの、失踪事件のことを。

完璧な記録の中で、ひとりの男が、自分を、消した。記録を、食いちがわせて。

あれは、消えた男の、抵抗だったのかもしれない。

きれいに記録され、きれいに分類され、きれいに忘れられていく時代に。

「俺は、お前らの、思い通りには、記録されないぞ」という。

たったひとりの、藪。(※3)

ボスは、改編の知らせを、わりと、平気な顔で、聞いていた。

「まあ、いいさ」と、彼は言った。「日曜の朝に、寝坊できる。ハワイにも、行ける」

いつもの、ふざけた、顔だった。

でも、わたしは、知っている。

この人が、ふざけるのは、本当のことが、こわいときだ。

彼は、こわいのだ。

本気を出して、その結果、居場所を、失ったことが。(※4)

────────────────

(※1)「方向性の違い」。この国で、いちばん多くの人を、傷つけずに、いちばん多くの人を、切ってきたことばかもしれない。

(※2)声を荒らげる暴力は、記録に残る。沈黙の暴力は、記録に、残らない。だから、いちばん、強い。

(※3)消えた男と、うちのボスは、会ったことがない。でも、同じことを、していた。記録される時代に、記録されないことで、自分を、守ろうとした。

(※4)「ハワイにも行ける」。この人の「まあ、いいさ」を、わたしは、もう、信じない。十年、聞いてきたから、分かる。

第十話 「残る人、去る人」

*残る者と、去る者がいる。それは、どちらが正しい、という話では、ない。

リニューアル前の、最後の収録だった。

うちのボスと、ベテランアナは、これで、この番組を、去る。関西のお笑いコンビは、残る。新しい番組にも、名前があった。

誰も、それを、口にしなかった。

楽屋は、笑い声で、満ちていた。いつもより、すこし、大きすぎる、笑い声で。(※1)

収録の合間、論理派の彼が、わたしのところへ、来た。

いつもの、よく切れる顔じゃ、なかった。

「あのさ」と、彼は言った。「俺、あの日、止めたでしょ。兄さんのこと。『データいじっただけ』って」

「はい」

「あれ、本当は、分かってたんですよ。兄さんの言うてること、たぶん、正しいって。消えた人、覚悟して消えたんやろなって。

でも、俺、言えへんかった。番組、残りたかったから。──家族も、おるしね」

彼は、笑った。今度は、自分を、笑う、笑いだった。

「かっこ悪いでしょ。芸人が、いちばん、空気読んでんの」(※2)

わたしは、首を、振った。

「いえ」

「いえ、って」

「残るのも、勇気です。去るのも、勇気です。どっちが正しい、なんて、ないと思います。──ただ」

「ただ?」

「うちのが、本気を出したとき。あなたが、隣で、ちょっとだけ、嬉しそうな顔、してたの。わたし、いちばん後ろから、見てましたよ」

彼は、黙った。

それから、長身の相方のほうを、見て、ぽつりと、言った。

「……次の番組、たぶん、つまらんなる気が、すんねん」(※3)

その、長身の彼も、収録の、最後に、わたしの、ところへ、来た。

大きな体を、すこし、かがめて。

「マネージャーさん」

「はい」

「兄さんのこと、頼みますね。あの人、ああ見えて、ひとりにすると、すぐ、しょげるから」

わたしは、すこし、笑った。

「知ってます。十年、見てますから」

「ですよね」と、彼も、笑った。「俺らも、寂しいですわ。あの、無茶苦茶な人と、もう、同じ番組やれへんの」

それから、彼は、めずらしく、まじめな顔で、言った。

「あの日、兄さんが、訂正、せえへんかったでしょ。あれ、スタジオの空気、最悪でしたけど。俺、ほんまは、ちょっとだけ、かっこええなって、思ってたんですよ。──言えへんかったけど」

言えなかったことを、去り際に、言う。

それも、ひとつの、勇気だと、わたしは、思った。

最後のVTRが、明けた。

うちのボスは、カメラに向かって、いつもの、適当なことを、言っていた。

「いやあ、楽しかったね、この番組。気が、良かったよ。気が」

また、気か。

スタジオが、笑った。最後まで、彼は、ふざけていた。

でも、わたしには、分かった。

ふざけることでしか、さよならを、言えない人なのだ。この人は。(※4)

────────────────

(※1)大きすぎる笑い声は、たいてい、泣くのを、こらえている。

(※2)芸人が、いちばん空気を読む。それは、かっこ悪いんじゃない。生きるって、そういうことだ。わたしは、彼を、責められない。十年、わたしも、そうだったから。

(※3)この一言が、彼の、精いっぱいの、さよならだった。

(※4)ふざけることでしか、さよならを言えない人を、わたしは、もうひとり、知っている。消えた、あの整備士だ。彼も、たぶん、まっすぐには、別れを、言えなかった。

第十一話 「知らんけど」

*本気を出すのが、こわい人がいる。理由が、ある人ほど。

収録のあと、ボスは、めずらしく、「飲みに行くか」と、言った。

近所の、古い、居酒屋だった。彼は、遠くへ、行きたがらない。腰のせいだ、と言うが、本当は、人の目が、すくない場所が、いいのだ。

ジンソーダを、二つ、頼んだ。彼は、最近、これしか、飲まない。

店主が、つけっぱなしにしていた、店の、古いテレビでは、ちょうど、野球の、ニュースを、やっていた。彼の、父親の、現役時代の、映像が、すこしだけ、流れた。若い、白黒の、英雄。彼は、それを、ちらりと、見て、すぐに、目を、そらした。

わたしは、気づかないふりを、して、おしぼりを、たたんだ。十年、いっしょにいると、見て見ぬふりが、うまくなる。それは、優しさの、こともあるし、逃げの、こともある。

「悪かったな」と、彼は、言った。「お前まで、巻き込んで」

「巻き込まれて、ません。わたしが、勝手に、立ったんです」

彼は、グラスを、見ていた。(※1)

「親父はさ」と、彼が、言った。

めったに、しない話だった。

「何をやっても、すごい人で。俺が、どれだけ、頑張っても、『お前は、あの人の、息子だから』って、言われてさ。

野球やってたときも、二世、二世。引退したら、こんどは、コメンテーター。気の、淀みが、どうとか、適当なこと言ってさ。

なんでだか、分かるか」

「……」

「本気を、出すのが、こわいんだよ。本気を出して、それで、親父に、敵わなかったら。俺、もう、立てないだろ。だから、最初から、本気を、出さない。ふざけて、おく。そうすれば、『あいつは、本気じゃ、なかっただけ』で、済むからな」(※2)

「それにさ」

彼は、グラスの、氷を、まわした。

「昔、家のシャッターに、落書きされたことがあってな。『七光り』って。デカデカと。誰がやったかも、分からずじまいだ。

有名って、得ばっかりじゃ、ないんだぜ。顔も知らないやつに、勝手に、値札を、貼られる。『あの人の、息子』っていう、値札を。

……まあ、間違っちゃ、いないんだけどな。それが、いちばん、こたえるんだわ」

「でもさ」

彼は、ジンソーダを、ひとくち、飲んだ。

「あの、消えた男の、ニュース見ててさ。こいつ、本気で、消えたんだなって、思ったんだよ。誰かを、守るために。ふざけずに、本気で。

それ見たら、なんか、俺、はじめて、ふざけたく、なかったんだ。

あいつの、本気を、俺の、ふざけで、汚したくなかった」

わたしは、黙って、聞いていた。

「だから、訂正、しなかった。──ま、おかげで、番組、クビだけどな。知らんけど」

最後に、また、「知らんけど」を、つけた。

でも、今日のは、逃げの「知らんけど」じゃ、なかった。照れ隠しの、「知らんけど」だった。(※3)

「ありがとうな」と、彼は、言った。

十年で、初めて、言われた、ことばだった。

「お前が、あの部屋で、立ってくれたとき。俺、生まれて初めて、『この人が、いてくれて、よかった』って、思ったよ。──親父の、七光りじゃ、なくて。俺自身に、味方が、いるって」

わたしは、なんと、答えていいか、分からなくて。

ただ、「弁当、いつも、勝手に、食べて、すみません」と、言った。

彼は、ふきだした。

「知ってたよ、そんなの。十年、前から」(※4)

────────────────

(※1)グラスを見て話す人は、たいてい、相手の顔を、見られないほど、本気だ。

(※2)この話を、彼は、たぶん、誰にも、したことが、なかった。マネージャーのわたしに、初めて、した。十年、いちばん後ろに、いたから、かもしれない。

(※3)「知らんけど」には、二種類ある。逃げの「知らんけど」と、照れの「知らんけど」。十年で、わたしは、やっと、聞き分けられるように、なった。

(※4)十年、ばれてないと思っていた。ぜんぶ、ばれていた。──そういうものだ。いちばん後ろの人のことも、誰かは、ちゃんと、見ている。

第十二話 「目を、つぶっていた人」

*バスで寝ていたのは、疲れていたからじゃ、なかった。

ベテランアナは、番組を去ると同時に、引退も、発表した。

四十年の、最後の日。

わたしは、ご挨拶に、行った。うちのボスの、付き添いで。でも、その人は、わたしのほうを、見て、言った。

「君に、礼を、言いたくてな」(※1)

「あの日、君が、立ってくれたから。わたしも、四十年ぶりに、本当のことが、言えた。

ずっとな、言えなかったんだ。『王様は裸だ』って。言ったら、楽な場所を、失うから。にこにこして、バスで、寝てれば、誰も、傷つかないし、誰にも、傷つけられない。

でもな。

バスで、寝てたんじゃ、ないんだよ、本当は」

その人は、笑った。

「目を、つぶってただけ、なんだ。起きてると、見えすぎる。誰が、誰に、忖度して、誰が、本当は、何を、思ってるか。見えすぎて、つらいから。目を、つぶって、寝たふりを、してた。四十年」(※2)

「君は、若いのに、いちばん後ろから、ぜんぶ、見てたな。

わたしと、同じ場所に、いた。

でも、君は、目を、つぶらなかった。最後に、立ち上がった。

わたしには、できなかったことだ」

その人は、わたしの、手を、握った。大きくて、すこし、震える、手だった。

「いちばん後ろの人がさ。いちばん、よく、見えてるんだよ。前にいる連中より、ずっと。

だから、頼むよ。

目を、つぶらない、いちばん後ろの人で、いてくれ。

わたしの、ぶんまで」(※3)

帰りの、エレベーターで。

うちのボスが、ぽつりと、言った。

「いい人だったな」

「ええ」

「俺さ、あの人が、バスで寝てるの、ずっと、うらやましかったんだよ。なんも、考えてなくて、楽そうで」

わたしは、言った。

「あの人、起きてましたよ。ずっと」

ボスは、エレベーターの、階数表示を、見たまま、しばらく、黙っていた。

「……そっか」

それだけ、言った。(※4)

────────────────

(※1)愛されているのに、本気にされない人。その人が、最後に、いちばん本気の、礼を、わたしに、くれた。

(※2)寝たふり。それは、いちばん、優しくて、いちばん、孤独な、生き延びかただ。

(※3)「わたしのぶんまで」。バトンを、渡された気がした。四十年、目をつぶってきた人から、目をつぶらないでくれ、と。

(※4)「そっか」。うちのボスの「そっか」は、たいてい、いちばん、深いところに、届いたときの、音だ。

第十三話 「見つからないほうが」

*見つからないほうが、しあわせなことも、ある。

あの失踪事件に、決着が、ついた。

といっても、解決した、わけじゃ、ない。

ニュースは、こう、報じた。「姉が依頼していた探偵は、弟の行方を、見つけることが、できなかったと、報告した。事件は、依然、藪の中」。

うちのボスは、その夜、テレビの前で、それを、見ていた。(※1)

「見つからなかったんだってよ」と、彼は、言った。

「ええ」

「探偵がさ、見つけられなかった、ってことは、ないと思うんだよな。あれだけ、記録が、残ってたんだぜ。プロが、追って、見つからないわけ、ない」

彼は、ジンソーダを、まわした。氷が、鳴った。

「たぶんさ。見つけて、見つけなかったことに、したんだよ。その探偵」

「……どうして、そう、思うんですか」

「だって、そのほうが、その人、しあわせだろ」

彼は、テレビを、見たまま、言った。

「消えたかった人を、見つけて、引きずり出すのが、正しいわけ、ないもんな。──探偵もさ。きっと、いちばん後ろから、ぜんぶ、見えてたんだよ。見えてて、黙ったんだ」(※2)

わたしは、その言葉を、自分のことのように、聞いていた。

いちばん後ろから、ぜんぶ、見えていて。

それでも、黙る。

それは、わたしが、十年、やってきたことだった。「守る」という名前の、沈黙。

でも、あの探偵の沈黙と、わたしの十年の沈黙は、たぶん、すこし、ちがう。

探偵は、見つけたうえで、黙った。守るために、選んで、黙った。

わたしは、見ないために、黙っていた。波風を、立てないために。

同じ「黙る」でも、目を、開けて黙るのと、つぶって黙るのは、ちがう。

ベテランアナの、言葉が、よみがえった。「目を、つぶらない、いちばん後ろの人で、いてくれ」と。(※3)

「なあ」と、ボスが、言った。

「俺たちも、ある意味、消えたよな。あの番組から」

「ええ」

「でも、消えたほうが、しあわせなことも、あるのかもな。知らんけど」

今日の「知らんけど」は、どっちだろう、と、わたしは、思った。

逃げか、照れか。

たぶん、初めて、その、どちらでも、なかった。

ただ、本当に、まだ、分からない、という意味の、「知らんけど」だった。

それは、いちばん、正直な、知らんけど、だった。(※4)

────────────────

(※1)藪は、出なかった。でも、藪の中にいることを選んだ人を、引きずり出さないのも、ひとつの、優しさだ。

(※2)うちのボスは、会ったことのない探偵の気持ちを、言い当てていた。本気で誰かを守ろうとした人間にだけ、分かることが、あるのかもしれない。

(※3)目を開けて黙るのと、つぶって黙るのは、ちがう。十年かかって、わたしは、やっと、その違いに、気づいた。

(※4)「知らんけど」に、三種類目が、あった。本当に、まだ分からない、という、いちばん正直な、知らんけど。

第十四話 「鎧を、脱ぐ」

*肩書きの、ない場所で。その人は、初めて、素で、しゃべった。

半年が、過ぎた。

うちのボスは、テレビから、消えた。大きな番組の、声は、かからなくなった。

代わりに、始めたのは、小さな、配信番組だった。

地方の、小さな会社が、やっている、ネットの番組。視聴者は、数千人。テレビの、何百分の一だ。ギャラも、ほとんど、ない。(※1)

でも、その番組で。

うちのボスは、初めて、「気が淀んでる」と、言わなかった。

ゲストの話を、ちゃんと、聞いて。分からないことは、「分からない」と、言って。間違えたら、「ごめん、いま、俺、間違えた」と、言った。

ふざけずに、しゃべっていた。

十年、いちばん後ろで、見てきたけれど。

わたしは、その人が、そんなふうに、しゃべるのを、初めて、見た。(※2)

「なんか、楽だわ」と、彼は、収録のあと、言った。

「守るものが、ないって、楽だな。失う番組も、もう、ないし。比べられる、親父も、ここには、関係ないし。

俺さ、はじめて、自分の言葉で、しゃべってる気が、するわ。この歳に、なって」

彼は、笑った。日焼けした、いつもの顔で。でも、目だけが、すこし、ちがった。

憑き物が、落ちた、みたいな、目だった。(※3)

ある回で、こんなことが、あった。

ゲストの、若い起業家が、自信たっぷりに、持論を、語っていた。昔の、ボスなら、「俺はね、そういうの、嫌いなんだよ」と、感覚で、切り捨てていただろう。

でも、その日、彼は、最後まで、聞いた。聞いて、それから、言った。

「俺さ、正直、半分も、分かんなかったわ。でも、君が、それを、本気で信じてるのは、分かった。それで、十分だよ。俺は、応援する」

スタジオが、すこし、静かになった。配信の、コメント欄が、流れた。「あの人、変わった」「いい意味で」。

わたしは、いちばん後ろで、それを、見ていた。

変わったんじゃ、ない、と、思った。

やっと、鎧を、脱いだだけだ。十年、いや、生まれてから、ずっと、着ていた、鎧を。

わたしは、相変わらず、いちばん後ろに、いた。

小さなスタジオの、隅で。弁当を──今度は、自分のぶんを、ちゃんと買って──食べながら、彼を、見ていた。

仕事は、ほとんど、なくなった。スケジュールも、すかすかだ。守るべき、大きな看板も、もう、ない。

それでも、わたしは、ここに、いる。

なぜか。

たぶん、この人が、初めて、素でしゃべる姿を。

いちばん後ろから、見ていたいからだ。

それを、見ていられるのは、十年、いちばん後ろに、いた、わたしだけの、特権だから。(※4)

────────────────

(※1)数千人。テレビの、何百分の一。でも、その数千人は、彼の、本当の声を、聞いている。何百万人が、彼の、鎧を見ていたときより、ずっと。

(※2)人は、守るものを、失ったときに、初めて、自分の声で、しゃべれるのかもしれない。皮肉な話だ。

(※3)「自分の言葉で、しゃべってる気がする」。この歳になって。それは、遅い、ようで、たぶん、間に合っている。

(※4)特権。そう、これは、特権だ。いちばん後ろの席は、いちばん、いい席だったのだ。ずっと。

最終話 「目を開けた、後ろ」

*いちばん後ろの人は、いちばん後ろから、ぜんぶ、見ている。

わたしの仕事は、たぶん、世界でいちばん、地味だ。

国民的だった、コメンテーターの、マネージャー。いまは、小さな配信番組の、たったひとりの、スタッフ。

テレビに映る、あの人の、すぐ後ろにいる人。──いや、後ろにすら、映らない人。

この一年で、変わったことは、ひとつだけ。

わたしは、もう、目を、つぶらない。(※1)

あの、用意された謝罪文の部屋で、立ち上がった日。

わたしは、いちばん後ろの人を、やめて、いちばん前に、出たんだと、思っていた。

でも、ちがった。

わたしは、いまも、いちばん後ろに、いる。

ただ、目を、開けている。

いちばん後ろで、目を開けて、ぜんぶ見て、必要なときだけ、立ち上がる。

それが、わたしの、見つけた、居場所だった。前でも、後ろでも、なく。──目を、開けた、後ろ。(※2)

ベテランアナは、ときどき、葉書を、くれる。

達筆で、短い。「お元気ですか。バスで、寝ていますか。──寝ていないなら、それでいい」。

わたしは、毎回、返事を書く。「起きています。ぜんぶ、見ています」と。

その葉書を、ボスにも、見せたことがある。彼は、しばらく、黙って、それから、「いい先輩を、持ったな、俺たち」と、ぽつりと、言った。(※3)

収録の、最後に。

うちのボスが、カメラに向かって、言った。

昔みたいに、ふざけた口調で。でも、目は、まっすぐで。

「俺さ、長いこと、いちばん前に、いたつもりだったんだよ。テレビの、ど真ん中で。

でも、いちばん大事なことは、ぜんぶ、いちばん後ろにいた、こいつが、知ってた。

だからさ。みんなも、探したほうがいいよ。自分の、いちばん後ろにいる人を。

そいつが、たぶん、あなたの、本当を、いちばん、よく知ってる。──知らんけど」

最後に、また、「知らんけど」を、つけた。

照れ隠しの、知らんけど、だった。

わたしは、いちばん後ろの席で、カンペの裏に、書いた。

今度は、間に合った。

『知ってます。ぜんぶ。』(※4)

(了)

────────────────

(※1)この物語に、ずっと出てきた「※」は、わたしの、心の声だった。口に出さないことを、書く場所。いちばん後ろの人の、本当の声。──最後まで読んでくれたあなたは、この物語の、いちばん後ろに、いてくれた人だ。

(※2)前に出ることが、勇気だと、思っていた。でも、本当の勇気は、いるべき場所で、目を、開けていることだった。

(※3)「寝ていないなら、それでいい」。四十年、目をつぶってきた人からの、それは、最大の、エールだった。

(※4)十年、わたしのカンペは、間に合わなかった。最後の、これだけは、間に合った。──いちばん後ろの人の、初めて、間に合った、ことば。

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